池澤夏樹『クジラが見る夢』(1994)
ジャック・マイヨール(1927-2001)との交流を通して海とクジラとイルカと人について考える日々の記録。海上・地上の写真(モノクロ)および海中の写真(カラー)多数を収録(撮影は高砂淳二、垂見健吾)。
彼の後に記録を伸ばした人たち。アンジェラ・バンディーニ、ウンベルト・ペリッツァーリ、ピピン。
映画「グラン・ブルー」のモデルはジャック・マイヨールだったが、本書の方が遥かに深く、ジャックの内面世界という海に潜る。しかし、海への潜水と同じく、深く潜れば潜るほど、神秘が増す。
池澤夏樹の著作に繰返し現れる自然と人間の関係についての思索が、本書では海という宇宙的な世界へ向かう。その手引きがジャックという生身の人間であることで、かえって自然と人間の距離が縮まるように思えるのはふしぎ。
印象に残る箇所が数多い。以下、章ごとにあげてゆく。
第一章
ジャック・マイヨール、六十七歳。髪はだいぶ白いけれども、身のこなしはきびきびとして、力があふれている。とてもその歳には見えないと会った誰もが言う。背はフランス人にしては高い方ではない。体格は痩せて見えるが、実は必要十分なものをすべて備えて、それ以外の余計なものは何一つないという完璧な形である。表情は豊かで、考えていることを素直に反映する。
著者がジャックと会ったのは1994年頃と思われる。つまり、本が出た年。
ジャック・マイヨールは一九二七年、上海に生まれた(同じ上海の租界に生まれた裕福な外国人の子としてもう一人、『太陽の帝国』を書いたイギリスのSF作家J・G・バラードがいる。バラードの方は一九三〇年生まれ)。
ジャックとバラードが同じ上海の租界生まれとは。
戦後、彼はさまざまな仕事を転々とした。行動的な性格であることは自分自身がよく知っている。動きまわること、野外に身を置くこと、なるべく海の近くにいること、これが基本方針になった。
本当は海の近くではなくて、海そのものに住みたいのだろう。
素潜りには潜水病の危険がないという利点がある。スキューバなどで呼吸をしながら潜ると、酸素だけでなく空気中の窒素もたくさん体内に取り込むことになる。圧力のかかった窒素はそれだけ多く血液の中に溶けこむ。水面に向かって上昇をはじめると圧力が下がるから、血液の中に溶けきれなくなった窒素は気泡となって出てくる。これが血管を塞いで障害を起こす。素潜りでは水の中にいる間は一切呼吸をしないわけだから、血液の中に窒素が溶けこむおそれもない。素早く潜って素早く上がれる理由がここにある。
素潜りの利点を明快に説明している。
第二章
知的であっても、彼は書斎の人ではない。いつでも戸外にいること、海の中にいること、現場で動いていることが彼の知性を動かす必須の条件なのである。
ジャックの知性の源。
第三章
ここからはたくさん出てくる。本書のハイライト。
彼にとって本当に大事なのは筋力よりも呼吸法の方かもしれない。いくつもあるうちの一つを紹介すれば、両手を前に伸ばして、指先を交差させると同時に息を一度吐く。腕を引いて息を一度吸う。次はこれを二度ずつ行う。次は三度ずつ。一回ごとに増やして十回まで。最後には体内の空気を十回に分けて吐き出し、また十回に分けて吸いこむ。空気によって体内を洗っているかのようだ。
この呼吸法、彼が学んだヨガの方法ともちょっと違う。やってみると不思議な感覚だ。
(クジラとイルカはどう違う? の問に)イルカの知性は遊ぶという段階に達していて、しかしそれ以上ではない。クジラは違う。クジラは遊ぶなどという段階を超えてしまっている。クジラはただそこにいるだけでいい。
クジラの圧倒的な存在感。
クジラはあの大きな脳で何を考えているのか? 物質的なことは何一つ考えなくていい。そういう問題があることさえ知らない。とすれば、あとは哲学的な瞑想しかないじゃないか。宇宙とは何か、存在とは何か、自分が今ここにいるとはどういうことか、時間とは? そういう問題をクジラの言葉で、あるいは言葉でさえない何かで、いつもゆっくりと考えている。何百キロも離れたところにいる仲間と歌で議論する。一つのテーマを一年がかりで、あるいは十年がかりで考える。
人間よりはるかに大きな脳で、本当にそんなことを考えてるのだとしたら、クジラの知は計り知れない。
シロナガスクジラと泳ぎたい。考えてみれば、これはほとんど無価値な、その分だけ詩的で哲学的な願望である。
ジャックの願望はクジラの生き方と同質のひびきがする。
ジャック・マイヨールという男の精神のいちばん奥にあるのは、何かしら偉大なものに近づこうという意志、自分の内なる力によってそれを実行したいという欲望らしい。宗教は自分の外に敷かれたレールに乗ることだから、その方法は彼はとらない。スキューバと同じで、それは安易すぎる。そうでないものを自分の精神と肉体を通じて求める。水深一〇五メートルのグラン・ブルーと呼ばれる青い暗闇はその偉大なものの一つであり、シロナガスクジラもその一つである。彼はそれを求めている。
偉大なものへの、こういう接近のしかたは独特だ。しかも、精神と肉体を通じてだという。
クジラを前にすると、世界は一変する。
ジャックがそれを経験していることは、みんなに伝わる。
クジラに会うことがどれほど人の心を動かすか、彼ほどよく知っている者はいない。
この本が出てから20年。今はだれかいるだろうか。
陸上にだって大きな動物はいる。間近に立って見上げればゾウだってずいぶん大きい。しかし、ゾウは四本の足で重力に抗して立っている。歩いて移動するという点ではわれわれ人間と変わらない。その意味ではゾウの動きかたは、理解できるというか想像できるというか、ともかくわかる。それに対してクジラは重力の存在さえ知らないだろう。彼の厖大な体重はすべて水が支えてくれる。それほどまでにクジラは自由なのだ。彼はゾウのように立っているのではなく、飛行船のように浮いているのだ。だから、ジャックが言うように、彼らは思索的に見える。クジラにあってはすべてがゆっくりとして美しい。
われわれとは全く別次元の存在。
西欧のいろいろな言語でクジラという言葉がみな「回転」という意味を語源に持っている、とメルヴィルが書いていることをぼくは思い出した。あのゆるやかな回転とそこで上がる水しぶき、それが落ちて水に戻る高速度撮影のような動き。あるいはあのブリーチングの、巨体が次第に横倒しに水に落ちてゆく時の夢のようなスローな動き。クジラは陸上の小さな忙しい動物たちとは違う時間に属しているし、たぶん違う空間に属している。ぼくたちは彼らを崇拝するしかない。
メルヴィルの『白鯨』冒頭の語源論。クジラが時空を異にすることの秘密が回転にあるとは。
ゆっくりと太陽が沈んでゆく。そして、最後のところになって、光っている部分の幅が急速に狭くなり、いよいよ消えるかという一瞬、その小さな朱色の光の点が鮮やかな緑色に変わった。あれだ、と思う間もなく、消えてしまう。緑閃光、緑の光線、グリーン・フラッシュ、リュミエール・ヴェール、いろいろと呼びかたがある。完全に晴れた水平線に日が沈む時には見えるというが、実際に見た人は少ない。
この緑閃光はエミリ・ディキンスンも詩にうたっていた気がする。
人間は次第に身体に頼らずに生きるようになってきた。歩かずに車に乗り、荷を背に負わずに車に預け、寒さに耐えるのをやめて暖房を施し、空腹を我慢するのをやめてひたすら食べつづけるようになった。身体の能力を軽視して、甘やかして、その分だけ外部のシステムに依存するようになった。身体なくしては生きるということはないのに、生きる実感はすべて身体経由で感じられるのに、精神だけが身体から独立できるような錯覚に陥っている。脳死が死として認められるというのも、身体が蔑ろにされていることの一つの結果ではないか。だからこそ、ジャックが常識の限界を超えて潜ったことに大きな意義があるのだ。人間の身体はかくも優れたものであり、だからこそ精神も優れたものになりうるのだ。
ここの箇所は現代人には痛切にひびくだろう。じっくり考えてみたいポイントだ。
機械の時代だからこそ、肉体に意義がある。肉体を鍛錬することに意義がある。ジャックが見出した人間の身体の能力とはそういうものである。
67歳にしてそういう意識でいるジャック。幸いにも、そういう人は決して珍しくはない。
彼はいつまでも水の中にいたい。二頭三頭とぴたりと並んで泳ぐイルカたちと共に泳ぎたい。生きる苦労など何一つ知らず、生きることの喜びだけを大海から感じとり、その喜びの意味について、宇宙全体の中に自分がいることについて、かぎりない瞑想をつづけているクジラと同じ思いを共有したい。クジラが見る夢を共に見たい。
「クジラが見る夢」!
それほど遠い大きなものを求めて生きてきただけでも、彼はクジラに最も近い地上の生き物なのかもしれない。
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