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東大病院救急部教授による死と生をめぐる率直な思索


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矢作直樹『人は死なない-ある臨床医による「力」と「永遠」をめぐる思索-(バジリコ、2011)

矢作直樹『人は死なない』

医師が語る異色の死生観。医師がここまで率直に死と病気などについて述べた書はめずらしい。医学界からもそれ以外の方面からも賛否両論がまきおこるだろう。だが、それでも、読むに値する貴重な記述を含む。

「あとがき」に、本書のモチーフについて次のように書かれている。

人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である(こと)

この「知識」の中に医学知識が含まれ、興味深い詳細な臨床記録にそれが発揮されている。その他に、霊的な方面の知識が含まれ、欧米の心霊主義(スピリチュアリズム)の歴史を簡潔に紹介する第四章にその一端が示されている。

著者による本書のモチーフのこの要約に、死生観に取組む基本姿勢が窺える。専門化された学術的な知識(医学など)と未確定の仮説的な知識(心霊論など)とがあることを認めたうえで、人間の保有する前者は僅かであり、後者は傾聴すべきものを持っていると示唆しているようだ。実務者としては前者によって仕事をするものの、死生観の奥底に後者を忘れないでいたいというのが著者の願いだろう。



医学でわかっている知識が僅かだとの著者の言葉が誇張でないことは、次の記述にも見てとれる (第二章)。

現在認知されている病気のほとんどは、その原因すら解明されていないのも事実です。DNAに関しても、その三%を占める遺伝子についてはある程度わかっているものの残りの九七%、俗にジャンクDNAと呼ばれる部分の働きについては何もわかっていません。

だからといって、現場の医師が持てる知識と技術を総動員して日夜奮闘していないと思う人は殆どいない。第一章のすさまじい臨床の記録を読めば明らかだ。

にもかかわらず、現代医学には解明できない、もっと言えば人間には知り得ない未知の領域が存することは厳然たる事実であり、その事実の前に謙虚である著者の姿勢には共感できる。



その謙虚な姿勢と、東洋医学代替医療や心霊治療に対する著者のあくなき関心とは、矛盾しない。何より、著者自身の数度にわたる瀕死体験や、臨床で経験した信じられない患者の実例などの、具体的な根拠が圧倒的であり、そこから、現代医学では解けない謎に関心を持つのは、むしろ自然である。おそらく、その関心は、現代医学の限界の彼方を覗いてみたいという欲求に発するものだろう。

英米では、こういう開かれた医学観は、この半世紀以上にわたって治療や研究の中に浸透してきている。

英国では心霊治療がいち早く医療保険に組込まれている。また、米国では国立衛生研究所 (NIH) に相補・代替医療センター (NCCAM) という組織が設置されている。

また、中医学における気功の現状の記述は、漫画『ドラゴンボール』の孫悟空も真っ青という内容で、驚く他ない。



現代医学の基盤となっているのが自然科学である。その自然科学における「真理」は絶対的なものではないという見方を代表する例として、思想家ケン・ウィルバーが次のように紹介されている (第二章)。

(ウィルバーは) 人間の内面性が軽んじられ実証されたもののみが真実であるという近代科学の物質主義的世界観に席巻された現代社会を、批判を込めて「フラットランド」と名付けました

ウィルバーは人間の体、心、霊魂の探求には三つの視点が必要であると説く。肉の目・理知の目・黙想の目の三つである。これらの視点により得られる領域はそれぞれ独立しており、同列に議論するのは「範疇錯誤 (カテゴリ・エラー)」であるとしている。



以下、その他の気になった点に少しだけふれておく。

ヴェーダには「唯一の真理は聖者たちによって多くの名で語られる」という格言があると記されている (第二章)。

このような認識を体系的に述べたものに、本書には出てこないが、葦原瑞穂の『黎明』がある。著者は『黎明』のことはよく知っていて、物理学者の保江邦夫氏に教示している。保江氏は『黎明』第二章を物理学的に書き換えることを企図して『神の物理学』を書いた。



第五章に次の記述がある。

グノーシス派の『真理の福音書』(イエス・キリストが亡くなってまもない一~二世紀に書かれたとされ、一九四五年になって発見されたナグ・ハマディ文書の中のひとつ)には、「神は彼らを自らの内に見出し、彼らは神を自らの内に見出したのである」という言葉があります。合気道創始者植芝盛平も『武産合気』の中で、まったく同じことを述べています。まさに梵我一如の境地です。

これと同じ趣旨の言葉をあちこちで目にする。保江氏の形而上学的素領域論にもある。

こういう捉え方を自分のものとするためには、何らかのきっかけが必要かもしれない。理論物理学のような、世界のことわりを解き明かす学問的方法が合う人には、保江氏の『神の物理学』が手がかりになるだろう。



第五章には医師ならではの次の言葉がある。

孫子の謀攻篇には「……百戦百勝は、善の善なるものにはあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。」という一節があります。私は、この言葉を医療に応用して、「病気になってから手のかかる治療をすることは最善ではなく、病気が軽いうち、できれば未病のうちに快復をめざせることが最善」というように考えています。

ここから、自分の体調がいつもと違うと思ったら、ためらわずに医療機関に行くように勧めている。行こうという初動については他人が代わることができないので、本人の気持ちが大事ということだ。



本書には編集者の名前が記されていない。ほとんど編集らしきものが存在しないように見える。設立後10年余の歴史の浅い出版社だから仕方ないとはいえ、丁寧な編集工程が存在すれば、もう少し読者に配慮できたのではないか。読んでいて、読者が置いてけぼりではないかと思うことが何度もあった。章立てと小見出しの見せ方、文体の混在、叙述の順序等、考えるべきことは山ほどあると思う。

 

 

 

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