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英詩としても見事なリービ英雄氏の英訳万葉集

リービ英雄『英語でよむ万葉集

リービ氏の万葉集関連の著書では最も親しみやすい書。

〈約50首の対訳それぞれに作家独自のエッセイを付す,「世界文学としての万葉集」〉を語った本。

リービ氏の言わんとするところを最もよく伝えるのは、おそらく、この書でなく、Ian Hideo Levy, Hitomaro and the Birth of Japanese Lyricism (Princeton UP, 1984) か、あるいは、リービ英雄Man’yo Luster―万葉集(ピエブックス、2002) の方だろう。なぜなら、それらの書では英文で書いているから。残念ながら、本書の日本語は達意の表現とはいかず、真意を汲みとるのに苦労することがある。

それでも、本書は、意外な歌または意外な長歌の一部を選んでいることと、英詩として興味深い翻訳があることと、日本人にはない創見により、読みごたえがある。

人麿学者としてのリービ氏が柿本人麿を扱った部分に読むべきところが多いのは当然としても、もう一人の大歌人山上憶良について述べているところが、人麿と好対照をなし、本書の幅を広げている。願わくは、この対比の部分をもっと掘りさげてほしかったが、新書の限られた枠では総花的になるのはやむを得なかったか。

ひとつ本書の意外な効用としては、万葉集を原文で読むよりも、英訳で読む方が現代の日本人には分りやすいということがある。万葉集には今も解釈不能の難読箇所が残っているが、そういう箇所も含め、現代人には通じにくい1300年前の日本語が、現代英語により、生き生きとひびくことが本書では何度も起きる。それは心躍る読書体験だ。



心が動かされる瞬間は多いけれども、一つだけ例を挙げておこう。柿本人麿が妻と別れる場面の歌だ (巻2.136)。

青駒の足掻を早み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける

(青駒の歩みが早いので、雲居の彼方のはるか遠くまで、妻の住むあたりを過ぎて来てしまった。)

これをリービ氏は次のように英訳する。

The quick gallop
of my dapple-blue steed
races me to the clouds,
passing far away
from where my wife dwells.

「青駒の足掻を早み 雲居にそ」を氏は 'The quick gallop / of my dapple-blue steed / races me to the clouds' と訳す。gallop / dapple の /æ/ の母音韻に耳を奪われる間もなく、'races me to the clouds' と、おっと言わせる表現で締める。この race の他動詞としての用い方(「全速力で走らせる」)は意表をつくが、これしかないと思わせる説得力がある。猛スピードで馬に運ばれた先は 'clouds' である。読み手の想像力の中をあっという間に駈けぬけ、天へと駆けのぼる。見事であると同時に痛切だ。

もう、これほど妻から離れてしまったのである (passing far away / from where my wife dwells)。そのことを知った詠い手は、far away の行末で、本来、文法的には次行に続く句跨り (enjambment) の箇所なのだが、かすかに余韻を置き、小さな嘆息をしているように聞こえてくる。「ああ、はるか遠くだなあ、妻の家は」と。

このように、リービ英雄氏の英訳は、英詩として、じゅうぶん鑑賞に堪え、それだけでなく、そこから元の万葉集の原文を振りかえらせ、さらに深く味わわせてくれる。

 

 

 

 

あの国へ旅行しても安全なのか

「週刊ニューズウィーク日本版」〈特集:テロ時代の海外旅行〉(2018年5月1日・8日合併号)

特集は「テロ時代の海外旅行」。ありそうでなかった特集だ。

次のような構成。

・海外旅行はリスクになったのか
・「危なくない」国 丸分かりマップ
・あの観光地は大丈夫?
 トルコ
 ウイグル
 ケープタウン
 バルセロナ
 テルアビブ
 コロンビア
 マニラ
 パラグアイ
 イラン
・テロに負けない安全な旅を
・知っておきたい8つの安全対策

読んでみて分かったのだが、ほとんどの記事が日本人の視点から書かれている。世界水準のテロ対策が書いてあるのかと思った読者は肩透かしをくう。対策自体はやや物足りない。もっと深いところが知りたい読者は他に当たるほかないだろう。

〈「危なくない」国 丸分かりマップ〉は、「観光競争力ランキング」(日本は4位)と「世界平和度指数ランキング」(日本はアイルランドと10位を分けあう)とを組み合わせ、日本人訪問者数の統計も加えて地図にしたもの。一目で、意外に治安に不安がある国、おなじみでないが安全で魅力ある国などが見えてくる。

その地図によれば、意外に日本人が訪れていないが安全で魅力的なのはニュージーランドオーストリア、スイス、アイスランドポルトガルなどだ。

国別の記事では、南米と中東に興味深い内容が多い。イスラエルパラグアイなどは、これを読んで行きたいという人が増えそうな気がする。

特集記事以外では、「型破り上等! カーディ・Bの破壊力」の記事が抜群におもしろい。2017年ラップ界の新たなスターに躍り出た黒人歌手だ。冒瀆者と信仰者の二重性という独特の個性をそなえている。あらゆる境界を踏み越えてみせる人物であることを証明するアルバムを2018年4月に発表した。今後も目が離せない。

 

 

秘密の使命を負った主人公たち

J, K. Rowling, Harry Potter and the Cursed Child - Parts One and Two (Special Rehearsal Edition): The Official Script Book of the Original West End Production (Little Brown, 2016)

Rowling, Cursed Child

Rowling, Cursed Child

 本物語で重要なハリ・ポタ(Harry Potter)、デルフィニ(Delphini)、ヴォルデモート(Voldemort)のいづれも孤児である。いづれも、秘密の使命を負ったまま育ち、後に魔法界で大きな役割を果たすようになる。



 2016年7月30日にロンドンで初演された戯曲。J・K・ロウリング、ジョン・ティファニ、ジャック・ソーンのストーリーに基づいて台本をジャック・ソーンが書いた。その Special Rehearsal Edition Script 版の電子書籍で読んだ (Pottermore, 2016)。

 時代は2020年に設定されている。が、時間旅行が起きるので、1994年、1995年や1981年の出来事もはさまれる。

 その時間旅行の要素と、誰が主人公なのか、の2つが従来のハリ・ポタ・シリーズにない問題を孕む。

 時間旅行は過去の時代への追憶やノスタルジアといった温かいものと、歴史の書き換えという重い要素の2つがある。前者はこれまでの物語にも出てこなかった、いわば前史にあたる部分も含む。後者は下手をするとその結果として暗黒の世が訪れるかもしれないという重大なものである。

 主人公の問題はタイトルの「呪われた子」とは誰なのかという問題とからむ。もちろん、「ハリ・ポタと」が前に付いているので、第一義的な主人公はハリ・ポタといえる。が、プロット上は主たる登場人物はその息子のアルバスと、ドレーコの息子のスコーピアスである。このどちらか、というより後者が「呪われた子」であると、一見すると見える。ヴォルデモートの子ではないかという噂も語られるからだ。だが、本当にそうなのか。

 これらの問題はどちらも重要だ。どちらに関心がある読者でも、読後は、本書がシリーズの理解に新しい光を投げかけるものとして忘れることができないだろう。

 

 

 

 

又吉直樹の小説第二作。前作で又吉の文体に魅了された人は本作も間違いなく「買い」

『劇場』

又吉直樹

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又吉直樹『劇場』

期待を裏切られることはない。作者の文章はますます磨きがかかり、演劇論を通して語られる感性のきらめきは本書の随所に見られる。前作と合わせて、広く芸術論としても読めるし、クリエータを目指す人が読んでもきっと得るところがあるだろう。もちろん、劇団周辺の多彩な人物群像が織りなす愛憎半ばする葛藤はそれだけでおもしろい。何より主人公の永田と沙希の泣き笑いに包まれた関係が、愛おしくなるくらい純粋な男女の恋の物語で、読者はいつまでも二人を見守りたくなる。

ただ、実際は第一作『火花』より先に書き始めていたという。まず、出だしが『火花』と違う。『火花』は

大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。


と始まる。重厚で密度が濃い文章だ。一方、『劇場』の出だしはこうだ。

まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。


やわらかい。ほのかに光の存在も感じられる。薄日が差してきそうなのに、はっきりと見えないもどかしさもある。感覚がみずみずしい。

両者を比べると、『火花』が重低音と鋭い高音の組合せで鮮烈な音像を響かせるのに対し、『劇場』は見えそうで見えない世界と薄い皮一枚で隔てられた存在が希求する映像を見せる。どちらも、震える心をもつ人間のしなやかさが感じとれる。


■ 『劇場』から見る又吉直樹の演劇観

主人公の永田は売れない劇作家。「おろか」という劇団を率いている。相棒は中学生の頃から活動を共にしている野原。

永田が語る演劇観は本書のあちこちで展開され、物語のプロットとはべつに、ひとつの演劇論として読み応えがある。その一例。上演後の打ち上げの席で、脚本の都合で劇的な人生を与えられる登場人物たちについての議論を吹っ掛けられ、永田は考える。

劇的なものを創作から排除したがる人のほとんどは、作品の都合で平穏な日常を登場人物に与えていることに気づいていない。殺人も戦争もある世界なのに馬鹿なんじゃないかと思う。


好みの問題と創作の問題は別だとして、永田はこう考える。

簡単なものを複雑にすることを人々は許さないけど、複雑なことを簡単にすると褒める人までいる。本当は複雑なものは複雑なものでしかないのに。結局、自分たちの都合のいいようにしか理解しようとしていない。それを踏まえたうえでなら簡単と複雑の価値が対等なように、劇的なものと平凡な日常も創作上では対等でなければおかしい。


ある意味でラディカルな演劇観をもつ永田だが、その永田にも自らの脚本を超えていると思われる存在が沙希だった。沙希の表情には主張と感情と反応が混ざって同時に出ている。そういう人間の複雑な表情に永田は惹かれる。


■ 主人公の永田と沙希の出会い

永田と沙希の出会いは変わっている。あとで沙希が「殺人鬼に殺されると思ったの」と述懐するほどの怖い体験だった。

永田が外を歩いていると反射する強い陽射しに視界が霞む。立ち止まったところは画廊だった。ガラスの向こうを覗くと月の下で歯を剥き出す猿の絵画がある。それに見入っていると、ほかにも画廊を覗いている人がいる。若い女の人のようだった。通行人が何人も背後を通り過ぎるなかで永田とその女性だけが動かない。

永田は、この人なら、自分のことを理解してくれるのではないかと思う。その人をじっと見ていると、視線に気づいたその人が数歩後退すると背を向けて歩き出す。永田はその人の背中を追って歩きだしたようだった。その人はあきらかに永田を警戒して速度を上げる。永田も速度を上げたようだった。

その人の横に立った永田は、「靴、同じやな」と変なことを言う。永田は知らない人に話しかけたことがない。その人は「違いますよ」と言った。

知らない人に変なことを話しかけられれば誰でも不審に思う。その人は不安気な表情をうかべる。永田は言葉を発する。

「あの、暑いので、この辺りの、涼しい場所で、冷たいものでも、一緒に飲んだ方が良いと思いまして、でも、僕、さっき、そこの古着屋で、タンクトップを買ったので、もうお金がないので、おごれないので、あれなんですけど、あきらめます。また、どこかで会いましたら」


どうだろうか。変人扱いされて一度も想いを伝えられないのは残酷過ぎると意を決しての永田の言葉だったが、これではますます変人扱いされないだろうか。

読者が男性であるか女性であるかによって受取り方は違うだろうけれど、この会話のあとでふたりが恋人同士になる展開はとても想像できない。しかし——。続きが気になる方はぜひ本書でお楽しみいただきたい。

 

 

 

万葉集の感性のコアの部分は「コンテンポラリ」であると考え英訳された詩と美しい写真と

『Man’yo Luster―万葉集

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Levy Hideo- Man'yo Luster

美しい本である。

万葉集の抜粋とその英訳(リービ英雄)、イメジ写真(井上博道)から構成された大型本だ。全380頁。歌の読み下し文および口訳は中西進万葉集 全訳注 原文付』に拠る。

この本を読む人はおそらく標準的な万葉集の本は別に持っているだろう。それらを参照するための手がかりとしては歌番号のみ。巻数は省略。



序文(英語)でリービ(Ian Hideo Levy)は8世紀初頭当時の廷臣の感性を満たしたのはアニミズム——自然が魔法をかけられたように生き生きしているという感覚——の遺産だったと述べる。こういう自然のアニミズム的な豊かさを言葉でもって息を呑むような力と美とを備えた風景へと転じた詩が収められていると書く。この書き方はまるでヴェーダの祈りの描写のようだ。

その詩のイメジャリは視覚的で力強く、ときに動的であるとリービはいう。すべての自然を視覚的メタファの源泉とするので、古代の作品ではあるが際立って翻訳しやすいと彼は考える。その感性のコアの部分は「コンテンポラリ」であると。ゆえにこの英訳。

1300年前のこの日本の詩には光輝(luster)があり、まるで昨日書かれたかのようであると彼はいう。事実、リービの翻訳は米国では翻訳詩として受入れられ1982年の全米図書賞(翻訳部門)を受賞している('The Ten Thousand Leaves: A Translation of The Man'Yōshu, Japan's Premier Anthology of Classical Poetry' [Princeton UP, 1987])。

この本は言葉とイメジの融合により古代のヴィジョンを現代世界にむけて表現しようとした試みである。

***

あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の
            にほふがごとく今盛りなり[巻3-328]

The capital at Nara,
beautiful in green earth,
flourishes now
like the luster
of the flowers in bloom.

〈花が輝く。(中略)ことばのlusterが千三百年が経っても消えない〉とリービはいう。確かにその通りだろう。

〈万葉の艶は、英語にも出る。英語に出たとき、万葉集は、人類の古代から受けつがれている最大の叙情詩集、というもう一つの像を結ぶ。〉と彼が書くとき、読者の側は感性をフル動員して、彼が伝えようとしたものを読み取ろうとする。



現代人がこの歌を読んでも、ほぼわかる。しかし、「にほふ」がやや引っかかる。リービは別の本で〈「にほふ」は「光」という意味もあるのでluster、「艶(つや)」になる。古代の都会人のことばの艶が、lusterが、今も残る〉と書く(『英語でよむ万葉集』)。

本書の底本の中西進万葉集 全訳注 原文付』には「薫(にほ)ふ」について〈色にも香にもいう〉とある。現代人の使う「におう」の意味もあったわけだ。だが、ここは色の方の意味らしい。「咲きさかる花のかがやくように」と訳す。

日本古典文學大系『萬葉集 一』には「にほふ」について〈赤・黄・白などに映える意。転じて香りにもいう〉とある。なんとカラフルな語感の語だ。しかも、そのカラフルな意味が原意で、香りの方が派生であるとは。ちなみに、この歌はあまりに簡単だと思ったのか、他の歌には付いている「大意」すら付いていない。

しかし、この大系本には枕詞の「あをによし」についてこう書いてある。

地名ナラにかかる。奈良時代には青丹の美しい意に解されたらしい。原義は、アヲは青、ニは土の意、ヨ・シは共に間投詞という。…ヨシの形の枕詞は例が多い。

この説明は中西進の上掲書の〈奈良の美称。「青土よし」の意か〉より興味深い。

大系本に従えば、原義は「ああ、青い土よ」くらいの意味なのだろう。こう思って本歌をよみかえすと、実にカラフルに光輝く往時の都が目に浮かぶような気がしてきた。緑を背景に赤・黄・白に映える花のような都のたたずまい。これをじっと思い浮かべていると、本当に千三百年の時が超えられそうに感じる。



上の英訳において「盛りなり」をflourishと訳したことについて、リービはフランス語のla fleur「花」と同じ語源をもつことを記している。

flourish / flowers の /fl/ の頭韻は確かに感じられ、語義の点でも響き合う。



しかし、luster一語で原語のカラフルなニュアンスが出ているかということになると、それは無理だ。きらめきや輝き、つやは出ても、色の彩までは感じさせない。

***

よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ(巻1-27)

The good ones of the past
found Yoshino good,
and often had a good look,
and spoke good of it.
Have a good look, my good one,
have a good look.

「よし」を八つ重ねた。英訳は good を七つ重ねる。おもしろい訳だ。

***

やすみしし わが大君の 聞(きこ)し食(め)す 天の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激(たぎ)つ 滝の都は 見れど 飽かぬかも(巻1-36)

Many are the lands under heaven
and the sway of our Lord,
sovereign of the earth's eight corners,
but among them her heart
finds Yoshino good
for it crystal riverland
among the mountains,
and on the blossom-strewn
fields of Akitsu
she drives the firm pillars of her palace.

And so the courtiers of the great palace,
its ramparts thick with stone,
line their boats
to cross the morning river,
race their boats
across the evening river.
Like this river
never ending,
like these mountains
commanding ever greater heights,
the palace by the surgins rapids--
though I gaze on it, I do not tire.

持統天皇の吉野行幸の際に柿本人麿が作った歌。すばらしい。さすが、人麿を専門とするリービだけある。彼はよく枕詞を文字通りに訳しておもしろい効果を出すが、ここのsovereign of the earth's eight cornersは傑作だ。原文は「八隅知之」。

***

軽皇子(かるのみこ)の安騎(あき)の野に宿りましし時に、
柿本朝臣人麿の作れる歌

東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ(巻1-48)

By Kakinomoto Hitomaro, when Crown Prince Karu sojourned on the fields of Aki

On the eastern fields
I can see the flames of morning rise.
Turning around,
I see the moon sink in the west.

リービが万葉集は翻訳可能だといったことがこの訳で実感できる。人麿の天才的な詩行は全く普遍的だ。リービの訳はまるでイマジストのようだ。

 

 

Man’yo Luster―万葉集

 

 

 

ボルヘスがチェスタトンのベストに挙げた「黙示録の三人の騎者」を含む傑作短篇集

ポンド氏の逆説【新訳版】 (創元推理文庫)

G・K・チェスタトン

 

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G. K. Chesterton - The Paradoxes of Mr Pond

 

読むと覚醒されざるを得ない小説がある。

これはその種の小説だ。

わたしは覚醒させられる作品が好きだ。チェスタトンのこの短篇集は短篇でここまで読者を覚醒させられるのかという驚きに満ちている。

その驚きの源は逆説(paradox)である。

逆説とは何か。一見矛盾しているようだが、という例のやつである。

一見矛盾しているように見えて、じつは真理である。

一見矛盾しているように見えて、じつはやっぱり矛盾している。

この二つの場合があるから厄介だ。一見矛盾しているように見えてよく考えると真理をうがつ陳述だと言い切れれば話は簡単なのだが、そうでもない。だから、受け手はどちらに転ぶか最後まで宙ぶらりんの状態におかれる。この宙吊り状態は解消されるとは限らない。

チェスタトンのこの短篇集は 'The Paradoxes of Mr. Pond' (1936) と題されている。没後出版ゆえ題は出版社がつけたのだろう。


「黙示録の三人の騎者」(The Three Horsemen of Apocalypse)

プロシアの元帥がポーランドの詩人を処刑しようとする話である。

しかし、その処刑実行は失敗した。なぜか。

ポンド氏によれば、兵士が元帥の命令に忠実すぎたからであるという。それも、兵の一人が従ったのならよかったのだが、兵の二人が従ったために失敗したと。

これを聞いた友人ウォットンは「それは逆説のようだな」と嘆息(ためいき)をついて言う。原文では "I suppose that's a paradox," said Wotton, heaving a sigh. である。この heave という動詞には「やれやれ、おかしなことを言うな」との感じが溢れている。heave は「重い物を持ち上げる」意で、「ほんとに、変なことを言ってるな」との「しょうがないな」感が出る。

だが、ポンド氏は澄ました顔で話を続ける。いったい、いかなる説明が待っているのか。推理小説でいう「倒叙形式のミステリ」(inverted mystery)さながらの話が展開する。つまり、犯人が最初から分かっていて、叙述が進むにつれて謎解きがされるというタイプの話だ。読者の側も知力を試されるわけで、チェスタトンはこの種の話を書かせたら天下一品だ。詩人と狂人のモチーフも健在だ(この話では「詩的」と「散文的」の対立として描かれる)。原文は詩的散文とも言うべき文体で書かれている。ボルヘスが本作をチェスタトンのベストに挙げたのは肯ける。

この話では、はっきり語られていない、ある点だけを指摘しておく。処刑されようとする詩人は土手道の東端に捕えられていた。元帥が指揮をとる作戦本部は土手道の西端にあった。元帥の処刑命令を携えた騎兵はこの一本道を東へ向かった。その後を、夜の7時45分に陣地に到着した皇太子が出した執行延期令状を持った騎兵が追いかける。さらに、その後を、元帥が放った第二の騎兵が何としても死刑を実行する密命を帯びて追いかける。この緊迫した舞台を照らすのは昇り来る月明かりのみである。


「ガヘガン大尉の罪」(The Crime of Captain Gahagan)

こちらは犯人捜しのタイプのミステリだ(whodunit mystery)。

ただし、犯人が誰なのかを推理するというより、誰が犯人でないのかを推理することに重点がある点で独創的だ。

ガヘガン大尉はフレデリック・フェヴァーシャムを殺したと疑われている。大尉はポンド氏の友人である。大尉を犯人と疑うルーク弁護士とポンド氏が話し合う場面でどういう推理が展開されるか。

ポンド氏の推理の決め手は二つある。

一つは話し方だ。特に女性の話し方。さらには女性の話の「聴き方」。

いかに女性が尻切れとんぼの話し方をするか。いかに女性が人の話を最後まで聞かないか。こうしたことについて前半で蜿蜿と語られる。

もう一つの決め手はガヘガン大尉がアイルランド人であることに関わる。アイルランド人に関連して人が思いつくおそらく最大の特徴に関わるのだ。ポンド氏はアイルランドの有名なシェークスピア学者エドマンド・マローンの本を目にした時に、この問題の最後の逆説に気づく。

ガヘガン大尉は掉尾文(periods)(*) を駆使する昔のアイルランドの雄弁家のあとを継ぐ最後の一人だったと語られるなど、この話は文体的な話に満ちている。全体として秀抜な文学的ミステリとも呼ぶべきものだ。

(*) period (periodic sentence): 完全文、掉尾文。反対が loose sentence「散列文」。文尾に至るか至らないかの違い。
以上のようなこと、即ちこの事件の文学性は実は冒頭にすでに明言されている。

〈ポンド氏のことを退屈なおしゃべり屋だと思っている人々がいたことは、認めざるを得ない。彼には長話が好きという欠点があったが、それは尊大さの故ではなく、古風な文学趣味を持っていて、無意識のうちにギボンやバトラーやバークの癖を受け継いでいるからだ。彼の逆説すらも、いわゆる才気煥発な逆説ではなかった。〉

ここに、この話のすべてが凝縮されている。しかし、訳注はバークを英国の政治家・作家としか書かない。これは誤解のもとだ。そもそもバークを読んだことすらないのだろうと思う。でなければ、この話に対する本質的な関わりを見落としたとしか思えない。だいたい、チェスタトンは「文学趣味」と書いているではないか。原文は 'he had an old-fashioned taste in literature'.


ほかに「博士の意見が一致する時」(When Doctors Agree) など6篇が収められており、いずれ劣らぬ傑作である。

西崎憲の解説は中途半端な推論を除けば大いに参考になるが、一つだけ、解説で触れられている「逆説」paradox を考える際に、手がかりになりそうなことがある。英米文学の方面からはチェスタトンの中心的著作の一つとみなされる 'Orthodoxy' を一方に置くという視点である。チェスタトンはこれを書いたときアングリカンであったが、14年後にカトリクに改宗する。この著作は彼の屋台骨である。これを核心に据えれば、解説にあるようにチェスタトンを思想的には「ヒューマニズム的な傾きを持った人物」と捉えることがいかに真実からかけ離れているかがわかるだろう。

 

 

 

レプラコーンとの夏——静修生活転じて異界の修行となる

Tanis Helliwell, Summer with the Leprechauns: the Authorized Edition (Wayshower Enterprises, 2012)

 

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驚異の書だ。

このレベルの接触をした人物はルドルフ・シュタイナー以来かもしれない。つまり、百年ぶり。

といっても、あくまで人間の時間の尺度によればの話。



アイルランド系カナダ人の著者タニス・フェリウェルは一夏ほど瞑想の生活をするつもりでアイルランドにやって来た。アイルランドを始め、世界にはその種の生活に適した静修所(retreat)があるが、この場合は、人里離れた所にあるコテージを一夏借りて暮らすものだった。

ところが、そのコテージには何と先住者がいた。レプラコーン一家だ。村の人に聞くと、コテージはレプラコーンの通り道の真上に建てられているという。だから、村人はコテージを「妖精の出る」(haunted)家と呼んでいる。



文章があまりにもうまく、上質のビクトリア朝の小説でも読んでいる気にさせられるので、うっかりするとフィクションかと思ってしまうが、本書はフィクションではない。

端的に言えば、この星の自然を司る者達(エレメンタル)が従うルール・法則、その者達のたどった物語、この世界を協調して改善してゆくための示唆・提言などを詳述した本だ。

といっても、それを記した、人間界におけるような書物が存在しないので、直接、地水火風のエレメンタルたちから教わることになる。そのためには、学ぶ者自身がある種のイニシエーションを通らねばならない。

全体として、人間が置かれた地球のことを、深く広く、根本のところから静かに考えるのにうってつけの本だ。

なお、エレメンタルの中には人間の身体に深く関わるエレメンタルもいる。その意味では、身体を深く考えるのにも適している。



本書の著者のことは Jeanne Crane の書 (Visiting the Thin Places of Celtic Irelandを通じて知った。

本書に出会うような人は何かしら数奇な縁に導かれるのかもしれない。この縁に感謝している。

アイルランドといえば妖精の国として知られるが、このレベルまで深く妖精のことを書いた本は恐らく類書がない。フォークロアが外側からの習俗の観察の学とすれば、本書はいわば内側からその世界のことを語ったものだ。知る限りでは英語の書物としては極めて稀な書。



著者はコテージを1か月の約束で借りていた。このコテージは売れたため、5日後には新しいオーナーに引き渡さねばならない。新しいオーナーは今は作家ハインリヒ・ベルのコテージに住んでいるが、そのベルが帰ってくるので、こちらのコテージに引越す必要があったのである。

著者はできれば夏の残りの期間もこのコテージに住みたいと、現在のオーナーの息子に告げた。厚かましい願いだが、レプラコーンにそう言えと唆されたのだ。当然、息子はベルが帰ってくるので無理だと返答した。

その結果、どうなったか。非常に不思議なことが起きる。レプラコーンは人間と違う時間に生きているので、人間界の未来のことも分かるといわれるが、それがどう関わるか。興味がおありの向きは本書で続きをどうぞ。



原著は1997年刊。本書は新しい序文とレプラコーンのメッセジを加え、改訂されて authorized edition として2011年に出たものの電子版。

 

 

Summer with the Leprechauns: the authorized edition

Summer with the Leprechauns: the authorized edition

  • 作者:Helliwell, Tanis
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ペーパーバック