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英詩としても見事なリービ英雄氏の英訳万葉集


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リービ英雄『英語でよむ万葉集

リービ氏の万葉集関連の著書では最も親しみやすい書。

〈約50首の対訳それぞれに作家独自のエッセイを付す,「世界文学としての万葉集」〉を語った本。

リービ氏の言わんとするところを最もよく伝えるのは、おそらく、この書でなく、Ian Hideo Levy, Hitomaro and the Birth of Japanese Lyricism (Princeton UP, 1984) か、あるいは、リービ英雄Man’yo Luster―万葉集(ピエブックス、2002) の方だろう。なぜなら、それらの書では英文で書いているから。残念ながら、本書の日本語は達意の表現とはいかず、真意を汲みとるのに苦労することがある。

それでも、本書は、意外な歌または意外な長歌の一部を選んでいることと、英詩として興味深い翻訳があることと、日本人にはない創見により、読みごたえがある。

人麿学者としてのリービ氏が柿本人麿を扱った部分に読むべきところが多いのは当然としても、もう一人の大歌人山上憶良について述べているところが、人麿と好対照をなし、本書の幅を広げている。願わくは、この対比の部分をもっと掘りさげてほしかったが、新書の限られた枠では総花的になるのはやむを得なかったか。

ひとつ本書の意外な効用としては、万葉集を原文で読むよりも、英訳で読む方が現代の日本人には分りやすいということがある。万葉集には今も解釈不能の難読箇所が残っているが、そういう箇所も含め、現代人には通じにくい1300年前の日本語が、現代英語により、生き生きとひびくことが本書では何度も起きる。それは心躍る読書体験だ。



心が動かされる瞬間は多いけれども、一つだけ例を挙げておこう。柿本人麿が妻と別れる場面の歌だ (巻2.136)。

青駒の足掻を早み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける

(青駒の歩みが早いので、雲居の彼方のはるか遠くまで、妻の住むあたりを過ぎて来てしまった。)

これをリービ氏は次のように英訳する。

The quick gallop
of my dapple-blue steed
races me to the clouds,
passing far away
from where my wife dwells.

「青駒の足掻を早み 雲居にそ」を氏は 'The quick gallop / of my dapple-blue steed / races me to the clouds' と訳す。gallop / dapple の /æ/ の母音韻に耳を奪われる間もなく、'races me to the clouds' と、おっと言わせる表現で締める。この race の他動詞としての用い方(「全速力で走らせる」)は意表をつくが、これしかないと思わせる説得力がある。猛スピードで馬に運ばれた先は 'clouds' である。読み手の想像力の中をあっという間に駈けぬけ、天へと駆けのぼる。見事であると同時に痛切だ。

もう、これほど妻から離れてしまったのである (passing far away / from where my wife dwells)。そのことを知った詠い手は、far away の行末で、本来、文法的には次行に続く句跨り (enjambment) の箇所なのだが、かすかに余韻を置き、小さな嘆息をしているように聞こえてくる。「ああ、はるか遠くだなあ、妻の家は」と。

このように、リービ英雄氏の英訳は、英詩として、じゅうぶん鑑賞に堪え、それだけでなく、そこから元の万葉集の原文を振りかえらせ、さらに深く味わわせてくれる。