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池澤夏樹がなぜ民俗学の著作を入れたか


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南方熊楠/柳田國男/折口信夫/宮本常一池澤夏樹=個人編集 日本文学全集14 河出書房新社、2015)

  • まとめ 日本人像を塗り替える広さと深さをそなえた、文学以上に文学的な民俗学著作集


【解説】


 池澤夏樹の解説がおもしろい。「もともと民俗学文化人類学は文学と縁が深かった。どちらも人間の生きかたの根本に関わる知的活動であり、精神性や習俗や生活という基盤を共有している」と、本巻編集の意図を語る。「日本の民俗学はとりわけ文学に近いところで育ってきたように思われる」とも。

 折口信夫の『死者の書』を解説するなかで、本全集の第一巻の古事記に通じることが書いてある。〈女が男を救う。オホクニヌシの窮地をスセリビメが救い、..海を渡れないヤマトタケルオトタチバナヒメが救い..病を負った小栗判官を照手姫が救う..ペルセウスがアンドロメダを救うような逆のパターンは日本にはまことに少ない..この国でぼくたち男はいつも女に救われてきた。〉と、痛快きわまりない。

 柳田國男の「根の国の話」では、〈「根の国」を「根」の字から類推して地下に想定するのは誤りであり、本来は遥かに遠いところの意であって、というところから沖縄のニライカナイの「ニ」に連想が飛ぶ(沖縄語では「ね」は「に」になる)。〉と、沖縄にも通じた池澤ならではの視点を覗かせる。


南方熊楠

 南方熊楠の「神社合祀に関する意見」(明治45年)はまことに名文だけれども、当時の政治家や官僚は果たしてこれを読んでまともに受取っただろうか。ともあれ、例えば、〈わが国の神社、建築宏大ならず、また久しきに耐えざる代りに、社ごとに多くの神林を存し、その中に希代の大老樹また奇観の異植物多し。これ今の欧米に希に見るところで、わが神社の短処を補うて余りあり。〉などと書いてあり、博物学者としての顔も見せる。このように貴重な神林を伐ったらどうなるか。〈千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。〉と警告する。

 安易な神社合祀、神林伐採がいかに愚かなことか、言葉を尽くして訴える。〈大和の三輪明神始め熊野辺に、古来老樹大木のみありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。「万葉集」には、社の字をモリと訓めり。後世、社木の二字を合わせて木ヘンに土(杜字)を、神林すなわち森としたり。とにかく神森ありての神社なり。〉と説く。

 南方がこれほど説かねばならぬのも、役人や政治家だけが悪い訳でもない。人々の信仰心が薄くなったのであると訴える。〈神社の人民に及ぼす感化力は、これを述べんとするに言語杜絶す。いわゆる「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」ものなり。似而非(えせ)神職の説教などに待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言論理屈で人を説き伏せる教えにあらず。本居宣長などは、仁義忠孝などとおのれが行なわずに事々しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。〉と説く。つまり、人々にもはやこういう感化力が届かなくなってきていたのだ。この文章は白井光太郎本草学者。彼を通じて議員に働きかけてもらおうとした)に宛てた書簡文だけれども、言葉を尽くして日本文化の要を説くその切々たる真情が行間から溢れる。



柳田國男

「海上の道」(昭和36年[1961])

 島国なのに国民に海洋文化への関心が薄いこと。海岸に漂着する寄物(よりもの)。渥美半島の伊良湖崎で椰子の実を見つけた(明治31年。 島崎藤村の詩で知られる)。宝貝を求めて南島から来た人々が日本人の最初の祖先か。

 本書では「まえがき」が省略されている(インターネット上の「青空文庫」で読める)。人文系九学会の合同大会への感想から説き起こし、学問の課題に触れる。〈他日我々の能力が充ち溢れるならば、無論次々に研究の領域を、海から外へ拡張して行くことであろうが、少なくともこれまでのように、よその国の学問の現状を熟知し、それを同胞の間に伝えることをもって、学者の本務の極限とするような、あわれな俗解はこれで終止符を打たれるであろう〉と、皮肉をこめて希望的展望をしめす。

 風の名の集録に基づく考察がある。〈海ではそれぞれの風の性質が、風の名となっているのだが、内陸ではもっぱら方角を問題にするが故に、それを地方的に意味を限定して使い、したがって到る処少しずつ内容の差が生じている。..アユは後世のアイノカゼも同様に海岸に向ってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、またはくさぐさの珍らかなる物を、渚に向って吹き寄せる風のことであった。〉と述べる。

 〈言葉がきれいなために時々は歌謡の中に入〉る例がある。越前の武生(たけふ)に中世の遊女の歌がある。

 みちの口、
 武生のこふ(国府)に我ありと、
 親には申したべ心あひの風、
 さきんだちや

柳田は〈かつてこの都会が東西交通の衝であった時代に、遠くこの風の風下の方から、さすらえてきたと証する女たちが、しばしばこういう歌を唱えて旅人の哀れみを誘おうとした〉と解説する。さらに、〈心あいの風はいわゆる掛け言葉で、風を孤独の身の友と呼びかけたのであろうが、もうあの頃から発音は今と同じであった。これを海上生活の最も大切な問題として、遊女は歌にうたい、船人は淋しい日にそれを憶い起こしたので、遠い万葉の昔から、この一語の流伝は絶えなかったのである〉と解釈する。

 ここに見られる柳田の発想は、古くより伝わる言葉の響きから人の精神の道筋を想像力で掘り起こす詩人の営みに、極めて似通うように感じられる。民俗学でも、言葉を手がかりにする場合に、詩的感性があるのとないのとでは大いに違うだろう。もちろん、柳田はもとは詩人だった。短歌や新体詩を作っていた。田村花袋の『蒲団』に出てくる新体詩は彼(当時は松岡国男)の作である。

 椰子の実の話。柳田が大学生(東京帝国大学法科大学政治科、農政学専攻)の時の体験談だ。明治31年[1898]夏、伊良湖に二ヶ月ほど逗留する。(その前の年の夏にも同地に一月余りいて、あゆの風を経験している。)

 その折のことをこう記す。〈今でも明らかに記憶するのは、この小山〔岬のとっさきの魚附林〕の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えてまだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。〉

 さらに、友人の詩人に話したことが、この発見譚を不朽のものとする。〈この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている椰子の実の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。〉この歌は日本人なら知らぬ人がおそらくないくらいだろう。「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」で始まる歌だ。

 この流れ着いた処が特別の場所であることに柳田は注意を喚起する。〈伊勢が常世の波の重波(しきなみ)寄する国であったことは、すでに最古の記録にも掲げられているが、それを実証し得た幾つかの事実の中に、椰子の実もまた一つとして算えられたことを、説き得る者はまだなかったのである。〉と書く。

 椰子の実について、従来は文献のみに頼って考察していたことの弊害を、柳田は次のようにちくりとつつく。〈「倭名鈔」の海髑子(かいとくし)の条などは、明らかに書巻の知識であって、もし酒中に毒あるときは、自(おのずか)ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういう樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物のごとくにも想像せられていたようであるが、なお夜之(やし)という単語だけは、すでに和名として帰化している。京人の知識は昔も今のごとく、むしろ文字を媒(なかだち)として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、ただ徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富でないものを捜索していたことは、独り椰子の実だけの経験ではなかった。〉


「根の国の話」(1955)

 〈「根の国の話」を同じ異界論として折口の「妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏」と比べれば両者の文体の違い、いやそれ以前に思索の進めかたの違いがわかっておもしろい〉と池澤は書く。


「木綿以前の事」「何を着ていたか」「酒の飲みようの変遷」(昭和30年[1955])

 〈柳田の民俗学は生活の学でもあった。だから近世になって日本人の生活がどれほど大きく変わったかというテーマを扱う手つきにも危なげがない〉と池澤はしるす。


最上川の歌仙」(1947)

 〈連歌というのは生活に近いところで風俗を詩にまで昇華するものだから、芭蕉たちの歌仙(三十六の句を繋げる連歌)の評釈などの応用問題も柳田は充分にこなせる〉と池澤は解説する。

 『俳諧評釈』(民友社、1947)初収だが、筑摩書房の柳田国男全集に入っている(1999年のハードカバーの17巻、1990年の文庫の25巻)。が、やや入手しにくい作品には違いない。芭蕉が加わった歌仙の評釈として、興味深い。これが文芸評論家なら総花的になりそうなところを、柳田は歯に衣着せずばさっと切っている。詠み手の生活史を想像したりもしている。歌仙の機微の読みとしては抜群。〈俳諧特有の作後改修〉(〈連句を後代の鑑賞者の気のすむように、少しずつ引き直してゆくという風習〉)によるバージョン違いも細かく読んでいる。



折口信夫

死者の書」(1939)

 中編小説。1947年、「山越阿弥陀像の画因」(1944)を添えて再版されたが、それを読むと本作をいかに着想したか、本作に見られる習俗がいかに日本古来の固有のものであるかが分かる。奈良県当麻寺の中将姫(747-775)伝説に材を取った小説。

 本作では藤原南家郎女が彼岸の中日に見た、二上山に入る日の印象から、曼荼羅図を織り上げるまでが描かれる。郎女に的確な助言をする当麻語部姥が化尼の役で登場し、化尼の「前型」を感じさせる存在として印象的。本作冒頭に登場する滋賀津彦は著者によれば「脇役」なのだが、題の「死者の書」を最も感じさせる存在。

 短い字数ではとても言い尽くせないが、覚書を二つ記す。擬声語が独特である。特に、冒頭の「した した した」は墓室の死者の「臨場感」を伝え、本作が終わるまで読者の耳から恐らく消えることはないだろう。詩にも通じる。その点で、山本健吉が本作を「詩的小説」と呼ぶのは言い得て妙である。もうひとつ、山に入る日に郎女が仏を幻視するさまが、米詩人パウンドがピサ収容所で観音を幻視したことを想わせる。両者とも詩的リアリティがある。


「妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏」(1920)

 一度読んだくらいでは論旨の行き着く先が見えない。その意味では、池澤がいうとおり、「なかなかむずかしい」論文である。池澤は折口は〈常民の上にある天皇とその下にある被差別民が共有する聖性を見出すことができた〉と書く。日本人にとっての異界を考える際には恐らく必読の文献なのだろう。池澤は〈妣が国はどちらかと言うと過去に属する〉と、また〈常世は未来に向かう〉と書く。

 同じ異界論として柳田の「根の国の話」と折口の「妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏」を比較すると両者の文体や思索の進めかたの違いがわかっておもしろいと池澤は言うのであるが、ではどこがどのようにと問うと、そこから先はむずかしい。池澤は〈柳田民俗学は現実的かつ実証的だった。具体物によって間違いのない絵図を描いた。それに対して折口の方法はもっと詩的飛躍に富み、時には夢想のようにさえ思えるが、しかし夢想もまた人の心の働きであるとしたらそこまでを含まない精神史は大事な要素を欠くことになるだろう〉としか言わない。


「古代生活に見えた恋愛」(1926)

 池澤は本作が〈かつて恋愛はただの好いた好かれたの仲ではなく、神を含む信仰システムの中にあったことを証する〉と書く。あるいは乱交の祭事などの〈実例を古代だけでなく今の日本にも見出すのは時間軸を遡る探索をそのまま空間軸に置き換えるのが民俗学の特技〉であると論じる。

 古代の恋愛詩についての一般的先入観を打ち砕くような議論がおもしろい。たとえば、折口は〈万葉集の恋歌には、劇的な、叙事的なものが多くて、此時代は決して純粋な抒情詩の時代だとは言へませぬ。名高い恋愛の歌は、多く男女のかけあひ趣味を離れてゐないものです。さうして平安朝になるまでは、動機から見て、純粋な恋愛詩は認めにくい〉と述べる。民俗学的あるいは詩的興味からいってきわめて示唆に富む。


「わが子・我が母」

 わずか六ページ足らずの詩文ながらまことに印象深い。母・こうが死去したのが1918年、再応召し硫黄島に着任していた養嗣子・春洋(はるみ)が、硫黄島全員玉砕となったのが1945年。中央公論社の『折口信夫全集』第28巻(1957)初収。

 自分の母と子の死のことを歌をまじえつつ綴る。現世と異界とを自在に行き来するような雰囲気が滲み出るのは、必ずしも題材のせいとばかりは言えない。言葉のいちいちが境界をするりと越えてゆく感覚があるのだ。

 母が死んで7日、14日と経つころの家の内の様子をこう書く。

一七日、二七日(ふたなのか)と言う風に、忌みにこもっている間は、ことに物音がよく響く気のしたことであった。そんな日のある朝、
  家ふえて稀にのみ来る鶯の、かれ 鳴き居りと、兄の言ひつゝ
寂しさに相寄る心親しみは、この黒光りするような古い家の内を、極度におくゆかしく物邃(ふか)い感じに見せていた。


この「物邃い」の表現にはっとさせられ、柳田國男がよく用いた「物深い」を想起する。


「沖縄を憶う」

 本土の人間として「島の兄弟」である「沖縄びと」のことに思いを致している。『折口信夫全集』第17巻(1956)初収。切れば血の出そうな文章だ。言葉に対してそういう感じを抱くのは詩人ジェラード・マンリ・ホプキンズを除けば初めてだ。一箇所を引いてみる。

沖縄の人々は、学問上我々と、最(もっとも)近い血族であった。我々の祖先の主要なる者は、かつては、沖縄の島々を経由して、移動して来たものであった。それ故、沖縄本島を中心とした沖縄県の島々及び、その北に散在する若干の他府県の島々は、日本民族のかつて持っていた、最古い生活様式を、最古い姿において伝える血の濃い兄弟の現に居る土地である。これだけは、永遠に我々の記憶に印象しておかねばならぬ事実である。


「声澄む春」

 池澤は〈「声澄む春」は一九四〇年が皇紀二六〇〇年に当たるというので国家主導で祝典が開かれた際に詠まれたもの。対米開戦はまだ先だが、それを待つ雰囲気はすでに国内にあった。〉と解説する。『古代感愛集』(1947/1952)初収。長い詩の一連を引く。

 天飛ぶや 鳥の御船に
 国(くに)形象(がた)を空に知らして、
  天降(あも)りつく 饒速日(にぎはやひ)
  物部の遠つ神父(かむちゝ)
   国治(し)ると こゝにうしはき、
   民治ると そこに励めど、
  国の隈 彼面(をちも)此面(このも)に、
  八十(やそ)梟帥(たける)おほく屯集(いは)みて、
  喚(おら)ぶ声 地(つち)をゆりにき。

言霊のやどるSF詩というジャンルがあったとしたら、これはそのようなものかもしれない。


「神 やぶれたまふ」

 池澤は〈「神 やぶれたまふ」は戦争が終わってから書かれた詩である。国は敗れ、折口自身は最愛の養子である春洋を硫黄島の戦いで失った。連綿と続いてきた古代の信仰は失われるのか。〉と解説する。『近代悲傷集』(1952)初収。一連のみ引く。

 神いくさ かく力なく
 人いくさ 然も抗力(あへ)なく
  過ぎにけるあとを 思へば
  やまとびと 神を失ふ━━

ここに表された感懐は詩人エズラ・パウンドの 'The Return' を想起させる。現代人も目さえあれば古代の神々が感じられるとの信念を表すところが、折口の「信なくて何の奇蹟(しるまし)」の詩句に似通う。

 なお、折口がここで使う「神いくさ」は、たとえば柳田國男が『日本の伝説』の「神いくさ」で述べるようなのどかなものとは、だいぶ趣が違うだろう。



宮本常一

土佐源氏」「梶田富五郎翁」(1960)

 『忘れられた日本人』(未来社、1960)初収。「土佐源氏」は実際に高知県で博労に聞き書きしたもの。調査をしたのは1941年。〈話した人の名もわかっている。違うのは橋の下に住んでいたという点だけで実際には一応は家ないし小屋だったらしい。〉と池澤は書く。〈話が無類におもしろい〉と評すがこれは世辞でない。〈ともかく宮本常一はおもしろい。小説よりおもしろいと言ってしまっては作家であるぼくは立つ瀬がなくなってしまうのだが、これが本当のことなのだから、正直な話、かなわないなと思う。〉とまで書く。佐野眞一による評伝『旅する巨人 宮本常一渋沢敬三』によれば、話者(山本槌造)が話を「盛った」のを、宮本も承知で記録したらしい。口承の学は語り口そのものを記録することが重要だと改めて思わせられる。

 話者のことを「源氏」としたのは源氏のように多くの女性がからむからだが、最後まで連れ添った妻のことをこう書く。〈それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃアない。〉

 『忘れられた日本人』についての文章で松岡正剛が梶田富五郎についてこう書く。〈ぼくはかつて野尻抱影さんに「人間でいちばんおもしろく、かつ人間らしいのは泥棒と乞食だ」と言われて仰天したことがあるが、そういう意味での乞食なのだ。〉「土佐源氏」の博労は泥棒より〈格式が一つ上〉だと自覚しているが、自分で「乞食」という。


「ふだん着の婚礼 生活の記録1」〜「戦後の女性 生活の記録12」

 『女の民俗誌』(岩波現代文庫、2001)初収。池澤は〈「生活の記録」の1から12まではもっぱら女性史である。女性の側から社会を見るという視点は柳田にも折口にもなかった。〉と書く。

 どれも大変おもしろい。「共稼ぎ 生活の記録2」から対馬で見た老夫婦の例を引こう。宮本常一が1950年、対馬の北端の〈唐舟志(とうじゅうし)というところから名方(なぼ)ヶ浦へ渡る小さな船に便を借りた〉折のこと。〈名方ヶ浦から麦を買いに来た老夫婦〉の船である。〈じいさんはもう八十を越えていた。ばあさんもそれに近い〉。〈小さな船で麦一俵を積むと船のおもてはかなり沈んで見えた。それにじいさんとばあさん、私の三人が乗るのである〉。櫓はじいさんとばあさんが交代で押す。波は高い。「だいじょうぶだろうか」とばあさんがきくと、「心配せんでもええ」とじいさんの答え。そして、船が着いたときの描写。

船はじいさんの家のすぐ前についた。私はその家の縁さきでしばらく休んだ。ばあさんは茶をわかしたり、イモの煮出しなど出してねぎらってくれる。娘がそのまま年をとったような、いかにも素直なやさしいばあさんであった。ばあさんにはじいさんとともに暮らした六十年の海上生活があった。その長い間を島から島を渡りあるき、子供も船の上で産み、また船の上で育てた。今日も来る日も同じようなことのくりかえしであり、ときには危険なめにあったことも多いが、何の疑いも持たずじいさんとともに生きた。日本の片隅に生きていてもしあわせはあった。そしていまは自分が土になる土地も見出したのである。


 これを読むと評者はギリシア神話の老夫婦ピレーモーンとバウキスのことを思い出す。旅人の姿に身をやつした神ヘルメースを手厚くもてなしたことで、神々から同じ時に息を引取りたいという願いをかなえられ、夫婦は死後一対の木(オークとセイヨウボダイジュ)に姿を変えられた。バラッドに聴かれる死後にからみあう木の伝承にもつながる。


 これだけまとめて民俗学の著作を読むと、大げさでなく、日本人の見え方が変わるような心地がする。日本人とはこういうものだと何となく思っていたことが、人間の民俗の観察を通じて大幅に修正を余儀なくされる。小説でも詩でも歴史でも科学でも映像でも録音でもできない、フォークロアならではの視点が確かにある。フォークロアとはある意味でこれらすべてを統合するものだ。そして、民俗学の方法論が一様でなく、本書に取上げられた四人のアプローチが全く異なることも、ふだんはアイルランドフォークロアの文献を読んでいる者として、新鮮な驚きであった。