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ボルヘスがチェスタトンのベストに挙げた「黙示録の三人の騎者」を含む傑作短篇集


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ポンド氏の逆説【新訳版】 (創元推理文庫)

G・K・チェスタトン

 

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G. K. Chesterton - The Paradoxes of Mr Pond

 

読むと覚醒されざるを得ない小説がある。

これはその種の小説だ。

わたしは覚醒させられる作品が好きだ。チェスタトンのこの短篇集は短篇でここまで読者を覚醒させられるのかという驚きに満ちている。

その驚きの源は逆説(paradox)である。

逆説とは何か。一見矛盾しているようだが、という例のやつである。

一見矛盾しているように見えて、じつは真理である。

一見矛盾しているように見えて、じつはやっぱり矛盾している。

この二つの場合があるから厄介だ。一見矛盾しているように見えてよく考えると真理をうがつ陳述だと言い切れれば話は簡単なのだが、そうでもない。だから、受け手はどちらに転ぶか最後まで宙ぶらりんの状態におかれる。この宙吊り状態は解消されるとは限らない。

チェスタトンのこの短篇集は 'The Paradoxes of Mr. Pond' (1936) と題されている。没後出版ゆえ題は出版社がつけたのだろう。


「黙示録の三人の騎者」(The Three Horsemen of Apocalypse)

プロシアの元帥がポーランドの詩人を処刑しようとする話である。

しかし、その処刑実行は失敗した。なぜか。

ポンド氏によれば、兵士が元帥の命令に忠実すぎたからであるという。それも、兵の一人が従ったのならよかったのだが、兵の二人が従ったために失敗したと。

これを聞いた友人ウォットンは「それは逆説のようだな」と嘆息(ためいき)をついて言う。原文では "I suppose that's a paradox," said Wotton, heaving a sigh. である。この heave という動詞には「やれやれ、おかしなことを言うな」との感じが溢れている。heave は「重い物を持ち上げる」意で、「ほんとに、変なことを言ってるな」との「しょうがないな」感が出る。

だが、ポンド氏は澄ました顔で話を続ける。いったい、いかなる説明が待っているのか。推理小説でいう「倒叙形式のミステリ」(inverted mystery)さながらの話が展開する。つまり、犯人が最初から分かっていて、叙述が進むにつれて謎解きがされるというタイプの話だ。読者の側も知力を試されるわけで、チェスタトンはこの種の話を書かせたら天下一品だ。詩人と狂人のモチーフも健在だ(この話では「詩的」と「散文的」の対立として描かれる)。原文は詩的散文とも言うべき文体で書かれている。ボルヘスが本作をチェスタトンのベストに挙げたのは肯ける。

この話では、はっきり語られていない、ある点だけを指摘しておく。処刑されようとする詩人は土手道の東端に捕えられていた。元帥が指揮をとる作戦本部は土手道の西端にあった。元帥の処刑命令を携えた騎兵はこの一本道を東へ向かった。その後を、夜の7時45分に陣地に到着した皇太子が出した執行延期令状を持った騎兵が追いかける。さらに、その後を、元帥が放った第二の騎兵が何としても死刑を実行する密命を帯びて追いかける。この緊迫した舞台を照らすのは昇り来る月明かりのみである。


「ガヘガン大尉の罪」(The Crime of Captain Gahagan)

こちらは犯人捜しのタイプのミステリだ(whodunit mystery)。

ただし、犯人が誰なのかを推理するというより、誰が犯人でないのかを推理することに重点がある点で独創的だ。

ガヘガン大尉はフレデリック・フェヴァーシャムを殺したと疑われている。大尉はポンド氏の友人である。大尉を犯人と疑うルーク弁護士とポンド氏が話し合う場面でどういう推理が展開されるか。

ポンド氏の推理の決め手は二つある。

一つは話し方だ。特に女性の話し方。さらには女性の話の「聴き方」。

いかに女性が尻切れとんぼの話し方をするか。いかに女性が人の話を最後まで聞かないか。こうしたことについて前半で蜿蜿と語られる。

もう一つの決め手はガヘガン大尉がアイルランド人であることに関わる。アイルランド人に関連して人が思いつくおそらく最大の特徴に関わるのだ。ポンド氏はアイルランドの有名なシェークスピア学者エドマンド・マローンの本を目にした時に、この問題の最後の逆説に気づく。

ガヘガン大尉は掉尾文(periods)(*) を駆使する昔のアイルランドの雄弁家のあとを継ぐ最後の一人だったと語られるなど、この話は文体的な話に満ちている。全体として秀抜な文学的ミステリとも呼ぶべきものだ。

(*) period (periodic sentence): 完全文、掉尾文。反対が loose sentence「散列文」。文尾に至るか至らないかの違い。
以上のようなこと、即ちこの事件の文学性は実は冒頭にすでに明言されている。

〈ポンド氏のことを退屈なおしゃべり屋だと思っている人々がいたことは、認めざるを得ない。彼には長話が好きという欠点があったが、それは尊大さの故ではなく、古風な文学趣味を持っていて、無意識のうちにギボンやバトラーやバークの癖を受け継いでいるからだ。彼の逆説すらも、いわゆる才気煥発な逆説ではなかった。〉

ここに、この話のすべてが凝縮されている。しかし、訳注はバークを英国の政治家・作家としか書かない。これは誤解のもとだ。そもそもバークを読んだことすらないのだろうと思う。でなければ、この話に対する本質的な関わりを見落としたとしか思えない。だいたい、チェスタトンは「文学趣味」と書いているではないか。原文は 'he had an old-fashioned taste in literature'.


ほかに「博士の意見が一致する時」(When Doctors Agree) など6篇が収められており、いずれ劣らぬ傑作である。

西崎憲の解説は中途半端な推論を除けば大いに参考になるが、一つだけ、解説で触れられている「逆説」paradox を考える際に、手がかりになりそうなことがある。英米文学の方面からはチェスタトンの中心的著作の一つとみなされる 'Orthodoxy' を一方に置くという視点である。チェスタトンはこれを書いたときアングリカンであったが、14年後にカトリクに改宗する。この著作は彼の屋台骨である。これを核心に据えれば、解説にあるようにチェスタトンを思想的には「ヒューマニズム的な傾きを持った人物」と捉えることがいかに真実からかけ離れているかがわかるだろう。