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冬の夜長に、ちょうど百年前に世に出た火星のジョン・カーターの冒険譚に想いを馳せること以上にふさわしいことはちょっと思いつかない


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エドガー・ライスバローズ『火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ〈第1集〉』東京創元社、1999)

 

 南北戦争後の彼がいったいどこで何をしていたのか。その草稿を没後21年を経るまで封印させたのはなぜか。

 この合本版第1集の表紙はシリーズ第1巻をかざった武部本一郎画伯の絵だけれども、これを見るだけで胸が締めつけられるほどの想いに駆られる。また、故・厚木淳翻訳の文章も格調高く、カーターの語る話に引込まれる魅力がある。

 この火星シリーズ(第1巻)はバローズの代表作のひとつではあるのだけれど、SFとしてアメリカ文学の古典に列せられるかと云うと、どうだろうか。

 アメリカ文学の正典目録の範を自任する Library of America (以下、LOA)から刊行されてはいるけれど、 LOA を構成する一冊ではないと明記されている。だから、たとえば、1950年代米国SF古典選やディックやヴォネガト(以上はすべて LOA に属する)ほどの位置づけは得ているようには思えないのだ。

 だけど、そんな文学史論議は、本作を愛する人にとっては殆ど、どうでもいいことだろう。本書の由来を語る序のところにこんな文がある。

We all loved him, and our slaves fairly worshipped the ground he trod.

厚木訳では

わたくしたち一家は、こぞって大尉を愛していたし、奴隷たちは彼が踏みつけた地面を拝まんばかりだった。

この表現は、ある人に対し敬意に近い、畏れるようなといってもいい愛情を描く場合に使われる、伝承歌にも現れる表現である。たとえば、アイルランドの伝承歌の 'Black Is the Colour' で、想う女性のことはこう謳われる。

I love the ground whereon she stands.

つまり、この種の定型句が使われたことは、カーター大尉が、男が男に惚れるような人物であったことを示す。実際にこの作品を読むと、そのような人物として(少なくとも男性の)読者には意識されるだろう。女性が本作を読んだ場合にどう映るのかは定かではないのだけれど。