Paul Giles, Hart Crane: The Contexts of 'The Bridge' (1986; Cambridge UP, 2009)
モダニズムの長詩はたいてい難解だが、その中でも恐らく最も難解なのがクレイン(1899-1932)の『橋』 'The Bridge' (1930)だろう。
いやいや、エリオットの『荒地』のほうが難しいと思う人があるかもしれないが、あちらは詳細な研究書がこれでもかというくらい出ており、今や「批評産業」としてはほとんど新ネタに事欠く状態。
それではパウンドの『詩章』はどうかといえば、あれはまだ百年やそこらはネタに枯渇しないだろう。ジョイスの計算した、批評家に飯を食わせる百年は優にもつ。
ところが、このクレインの『橋』はどうだ。いまだにほとんど全く分かっていないといってもいいくらいの、未踏の高峰だ。
もちろん、東雄一郎さんによる『ハート・クレイン詩集』は出ている。だが、東さんも引用する新倉俊一さんの言葉通り、「ハート・クレインは彼女(エミリ・ディキンスン)の言葉の秘法を自分のものとした最初の本格的な詩人だった。彼はディキンスンと同じような徹底的なエクリチュールの詩人」である。一筋縄でいくわけがない。
本書は多面的な宇宙のような詩人であるクレインの言葉遊びや語呂合せの方面を詳細に分析したものとして画期的な著作である。特に『橋』の序詩の部分の綿密な解明ははかりしれない助けとなる。
だが、これだけではまだ十分でない。本丸はクレインの言葉の音楽性である。英詩の韻律論史上、隔絶した高みにあるホプキンズ(1844-89)に衝撃を受けて書かれた『橋』の音楽性の解明は、恐らく今後百年経ってもまだできないだろう。なぜなら、ホプキンズの音の詩学でさえ、百年以上経つのにほとんど本質的解明が進んでいないからである。