Malorie Blackman, Cloud Busting (Corgi, 2005)
すべて詩で書かれた点で特異な1人称児童小説(2004)。ふたりの男の子、デーヴィとサムとの関係をあつかう。英国の児童書に贈られるネスレ児童書賞の銀賞を受賞している(2004年、6-8歳部門)。また、英国の最も優れた児童書に贈られるカーネギー・メダルの候補作にも入った(最終選考〔ショートリスト〕まえのロングリスト)。
各章ごとに違うスタイルの詩で書かれている。そこで、以下、主として英語の詩としての分析をおこない、最後に題名について考える。なお、千葉茂樹訳が『雲じゃらしの時間』(あすなろ書房、2010)の題で出ている。
詩の韻律の概要
基本は1行に2から5の強勢を含む。各行に何音節あるかを気にして、それが意味のある場合もあるが、英語のような強勢でリズムをとる言語の場合、(現代の)詩におけるリズムを考えるためには、行あたりの強勢の数に着目するほうがよい。とはいえ、本書では音節によってリズムをとった詩で書かれることもある('haiku' の5+7+5=17音節詩形で書かれる第3章など)。また、伝統的な英詩に典型的な、強勢と音節の両方の要素を考慮に入れた詩形(accentual-syllabic)で書かれることもある(第7章など)。脚韻(行末の韻)は一部(後述の5章など)を除いて、ない。本書における詩のビートの全体の感じは、たとえば 'Jazz Chants' のそれに近い。英国の低学年児童が聴いて普通に理解できるリズムと表現になっていると考えられる。
行内韻(internal rime)は出てくることがある。'My ex-best friend Alex.' など(第1章)。おかしなことにすぐあとの第2章では 'My best friend Alex' と普通の形で出てきて、韻律と同時に内容の違いに、拍子抜けしてしまう。さらに頭韻(強勢音節の頭の子音同士の韻)も出てくる。カーテンの色の描写で 'Yelling yellows, booming blues, gargling greens' など(第19章)。
第2章~第4章
第2章は名前の話題が多いけれど、ときには発音の仕方まで嬉しそうに書かれている。 'And on my left / Alicia. A-lic-i-a!' のように。この娘のことが好きなんだなというのは、つづく2行でわかる。'A name like April showers / Dropping gently onto spring flowers.' ついでに4月のことも好きなんだなというのが 'name' と 'April' の母音韻(強勢音節の母音同士の韻)で感じとれる。
この女の子アリシアはデーヴィに夢中だということが第4章でわかる。そこではデーヴィは背が高く物静かだと描写される。
第5章
第5章は定型詩(limerick の詩型)で書かれている。aabba の押韻形式。これが徹頭徹尾デーヴィに対する悪口の詩だ。たとえば、'And his bum is so smelly / It appeared on the telly' のような。TVで取上げられるくらい臭いって、ひどい言い方。実は、このあたりまで読み進んでくると、本書はどうやら一人の男の子(デーヴィ)に対する複雑な感情(表面的には嫌悪感)が表されたものだとわかる。あまりにも嫌いという感じが強く出すぎるので、読んでいるうちに、これはそうとでも言わないと耐えられないくらい深い思いの裏返しなのではないかと、少しずつ思えてくる。
デーヴィについて第4章では肯定的に描きながら次の第5章で手のひらを返したようにけなしまくるのはなぜだろう。アリシアをめぐる三角関係を想定した場合には、'laugh' という単語が手がかりになる。
第4章でデーヴィは 'A good laugh (according to Alicia)' と描かれ、これはデーヴィのことが大好きなアリシアによる表現だから、いい意味の 'laugh' つまり英国英語でいう「一緒にいて愉快な人」('somebody is a (good) laugh': used to say that someone is amusing and fun to be with)の意だ(著者は英国の作家)。
ところが、これを第5章ではわざと反対の「物笑いの種」の意味に曲解して罵倒している。第5章の冒頭はこの語を動詞に使ってこういう。'When I see scabby Dave, how I laugh!' この語は同じ連の最後の行 ''Cause he never once gets in the bath.' と韻を踏み、風呂('bath')に入らないからあんなに臭いやつなんだの意を強調している。
なお、厳密にいえば bath と laugh は不完全韻(slant rime)となるだろうが、th を f で発音することはロンドン英語をはじめとする英国各地の方言で見られる(th-fronting 〔歯間摩擦音が唇歯摩擦音になる〕と呼ばれる現象)。
第6章
第6章 'Putting the Boot In' はその題のとおり、デーヴィを「ひどくけり上げる」詩で、詩行が靴の形に配置された、いわゆるタイポグラフィク詩(typographic poem)になっている(下の写真参照)。著者は図形詩(shape poem)の名称を使っている。形にまず目が奪われるが、詩の内容は心胆寒からしめるほどのものだ。いじめとはここまで恐ろしいものなのかとわかる。特に、最初の4行、引用符号に囲まれた部分の動詞の命令形が、つぎの地の文で過去形になっている意味に気づかされるとき、心が凍りつく感じがする。同じ型がもう一度くりかえされる。
第7章
第7章は静かな転機だ。この章をさかいに本書のトーンは変わり始める。弱強五歩格で脚韻をふまない無韻詩(blank verse)で書かれている。本書は全部で26章あり、それぞれに工夫をこらした詩のスタイルで書かれているが、この第7章はことに深く静かに響く。いくらいじめられても無言で悲しいかすかな笑みを浮かべるデーヴィの姿がここで浮き彫りにされる。
第8章~第10章
第8章で重大な真実の告白がなされ、第9章では新しい認識の夜明けが告げられる。その際、ビートルズのマジカル・ミステリ・トゥアのはじまりを想起させる 'Roll up' のかけ声が使われる。第10章は8行連が15連つづく、長い詩。ある事件が起こる。ここでデーヴィがサムに見せる「ひとつのにぶい虹」('A blunt rainbow')をえがく8行(第12連)は息を呑むくらい美しい。本書の詩としての頂点はここだ。
第11章~第14章
第11章でデーヴィは蝶になった夢を見た男のことを読んだとサムに語る。夢からさめて、男は自分は蝶になった夢を見ていた男なのか、それとも男の夢を見ていた蝶なのかと自問する。あきらかに荘子の「胡蝶の夢」の話だ。デーヴィは物には複数の見方があり、人と同じ考え方をすることほどつまらないことはないと語る。ところが、大人社会と同じく、子供社会でも、それを貫きとおすことは困難をきわめる。このあとは、デーヴィの理想とまわりの現実(サムを含む)との相克が焦点となる。第13章から第14章にかけての一見ささいな出来事はデーヴィとサムとの関係にどんな影響を与えるのだろうか。そのあとは胸をしめつけられるような展開。
本書は男の子ふたりの間によくありそうな関係を描いているだけともいえるが、詩による語り、デーヴィのふしぎな世界観、サムのジグザグの生き方などが忘れ得ぬ印象を残す。
題名
さいごに題名について。読む前から、英国の天才シンガー、ケート・ブッシュの歌 'Cloudbusting' (1985)にインスピレーションを受けたのではないかと想像していたが、第10章の第14連(それまでそこになかったか、あるいは気づいていなかった雲への言及がある)を読んで、ぼくの中では確信に変わった。ただし、著者はあとがきでこの歌のことは何にもふれていないけれど。ともかく、その歌でうたわれる、精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒが作り出した雲を作り出す機械と、その成果を見つめる子供ペータ(ピータ)の畏敬にあふれた表情が想起され、この父子の関係はデーヴィとサムとの関係に遠く谺しているように思われてならない。
オフィシャル・ビデオを下に掲げる。このビデオにはケートが影響を受けた Peter Reich の書 Book of Dreams が一瞬映るが、現在ではとんでもない高値の奇覯本だ。
Kate Bush - Cloudbusting - Official Music Video ...
本書は epub 版(kobo)で読んだ。Adobe Digital Editions などを使えば PC 上で、また iOS 機器上の kobo アプリでも、もちろん、kobo 専用機でも読める。