Tigh Mhíchíl

詩 音楽 アイルランド

記事一覧

一見すると大辞典の風格があるが、中身は初心者向けの小辞典


[スポンサーリンク]

前田 真利子, 醍醐 文子編著『アイルランドゲール語辞典』(大学書林、2003)

 

 分厚い大きな本である。一見すると大辞典の風格がある。が、中身は初心者向けの小辞典である。日本のアイルランド語初学者向けの丁寧な工夫が随所にある。

 ある辞書が使いこなせるかどうかはその序文が理解できるかどうかにかかる。その序文を読む限り本書は初心者が対象である。初心者に使い易くが最大の眼目と見える。しかし、「まえがき」にある<名詞は原則として,主格,対格,与格が通格で……>以下の文章が全く理解不能である。少なくとも、初心者には理解不能と思われる。初心者向け現代アイルランド語文法ではまず教えられることのない「与格」に関する記述が果たして日本の初心者向けの説明に必要なものかどうか。

 上の記述を読む限り、ここ四半世紀のアイルランド語言語学に関する研究には全く関心がないように見える。少なくとも、「参考文献」には骨董品とも見紛う書が多く並べられ現代アイルランド語を語学的に理解するために必須の文献群が殆ど見当たらない。少なくとも、Mícheál Ó Siadhail 著 Modern Irish (1989), Graiméar Gaeilge na mBráithre Críostaí (1999), Gramadach na Gaeilge agus Litriú na Gaeilge (1998 [最新版は Gramadach na Gaeilge. An Caighdeán Oifigiúil, 2012]) の3冊くらいは常時参照しなければ現代アイルランド語について何かを記述することは不可能である。古い書を参考にして伝統文化を重視する心意気を見せるならぜひ Patrick S. Dinneen 神父著の Foclóir Gaedhilge agus Béarla (1927) も常時参照してほしい。

 収録語は約 14,000 語とのことだが、典拠は主として Niall Ó Dónaill 編 Foclóir Gaeilge-Béarla (1977) とアイルランド教育省出版局発行の Foclóir Póca (1986) の2冊である。

 であるならば、前者のアイルランド語による序文がきちんと読めるくらいの内容でなければならないだろう。Foclóir Gaeilge-Bearla は辞書編纂チーム14名の氏名を掲げた頁に続き謝辞の頁がある。協力者たちに感謝を捧げる頁である。ちなみに、この「謝辞」 admhálacha の意は本書に出ていない。

 この謝辞の頁は現代アイルランド語文化に関心があればきわめて興味深いだろう。筆頭に挙げられたのがかのマールティーン・オカインである。云うまでもなく20世紀最高のアイルランド語作家である。アイルランド語世界におけるジョイスのごとき存在である。仮にノーベル賞委員会にアイルランド語を解するメンバーがいれば文句なしにノーベル文学賞を取ったであろう。オカインは小説家としてだけでなく伝承歌収集家としても知られる。生きた言葉としてのアイルランド語を知りたければまず彼の著作に赴くべきほどの人である。その彼に自信をもって本書は見せられるかどうか。

 多分見せられるだろう。喜んでさえくれるかもしれない。clog の項で clog an aingil に<(カトリック)お告げの鐘>とラベル附きで示したのは本書の良い点を示す。かくのごとき日本の読者向けのラベル附けは有用である。但し、Comaoin 1 の項で Comaoin Aifrinn を<ミサの祈り>としたのはどうだろうか。広義にはそうとも云えるかもしれないがやはり「ミサ献金」とすべきではないか。また、Comaoin 2 の用例には誰も知る Comaoin na Naomh 「諸聖人の通功、聖徒の交わり」を入れるべきだった。この句はゲールタハト(アイルランド語使用地域)の人は一日一回は唱えるだろう。かかるアイルランド語話者の血肉と化した語句は用例に採っておかないと言語文化一般の基底部が理解しづらくなる。コンピュータに喩えるならこの辺は OS の基本操作語彙にも匹敵するもので知らなければ具合が悪い。アイルランド語話者の現代的用法の中には驚くほどカトリック文化をふまえたものが多いからである。

 本書は実は現代生活の用語も採録していて fón póca 「携帯電話」もしっかり載せている。他にも毎日使う ríomhphost 「電子メール」なども載る。前置詞的代名詞などの活用形を見出し語に出すのは初心者にはありがたい工夫である。

 本書の価格30,240円は初心者には敷居が高い。せめて『ゲール語基礎1500語』くらいの価格にはしないと初心者には手が出せないだろう。この価格なら電子辞書にしてくれれば或いは買う人が増えるかもしれない。