トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』(講談社、2013)
不思議な小説だ。特にこれといって何かを強烈に主張している感じはなく、ムーミン谷で起こるさまざまのできごとを、ムーミン一家の視点を中心に淡々と語ってゆくだけなのに、読者の中で、知らぬ間に大きな変化が起きている。まるで魔法のようだ。
この変化は言葉で説明するのが難しい。読んでない人に、あるいは読んだ人であっても、この体験を伝えるには、ぼくに起きたことを語るしかない。
ぼくは1章ずつ読んでゆく。ムーミン家に大勢が集まっている。突然、洪水が起きて、家では暮らせなくなる。そこに劇場が流れてくる。ムーミンたちはそこへ移り住む。特にあわてる風でもなく、いつものペースのまま、新しい生活様式に移行してゆく。そこで交わされる会話。特に、ムーミンママの言葉が作者ヤンソンの思想を反映しているのではないかと思われるくらい、おだやかで、かつ芯が強い、哲学的なものだ。ムーミンパパとは明らかな対照をなす。とんでもない極端なミイの発言がはさまることで、ますますムーミンママの言葉は輝きを増す。
その1章ずつをゆっくり読み、1章読み終わるごとに、ぼくはしばらくぼうっと過ごす。そのときだ。不思議な魔法が働きはじめるのは。世の中で起きていること、身のまわりで起きていることが、たいへん明瞭に見えてくるのだ。頭の中で、諸事万端が像を結びだすといえばいいのか。
その間、何かを考えているという意識すらない。自然に起きるのだ。まるで、ムーミンママの口調で世の中のことが説明されているような心地すらする。もちろん、そんな声が頭の中でしているというわけではなく、ただ「わかる」のだ。本当にふしぎだ。あるいはムーミンママの口調ですらないのかもしれない。この物語世界の言葉がそのままこちらの現実世界をときほぐすかのような感じなのだ。
ちなみに、ぼくはこのエピソードはアニメ版のムーミンで見ている。だけど、アニメではこんな感じは起こらない。
どうしてなのか、さっぱりわからないので、ちょっとズルをしたくなり、ひそかに勉強している『ムーミン谷のひみつの言葉』という本を手に取った。すると、ムーミンママの項は、ママがたいせつにしているハンドバッグの話であり、ママはえらく感情的で、わがままなように描かれてる。ちょっと違うんだなあ。確かにそんな面があるかもしれないけど、ムーミンママはある面、哲学者なんだぜ。そこんところ、よろしく。と言いたくなるくらいなのだ。世の中うまくいかないなあ。
というふうにつらつら思っていたところ、本書がもたらす効果はクラシック音楽に似ているのではないかと思った。器楽演奏のクラシックの場合、歌詞はない。けれども、聴いている人の精神の中に、心の中に、魂の中に詩をつくりだす。聴き手の中に詩をつくりだすんだ。つまり、世界が詩のように見えちゃう。これってすごいことなのではないか。ところで、今の発想はマロリー・ブラクマンの小説から。
ところが、第5章「劇場で口ぶえをふくと、どうなるか」のあたりから、ちょっと様子が変わってくる。どうも、ムーミン家の考え方とは違う人たちも世の中にはいるみたいだとわかってくる。自分たちが決めたルールが絶対で、それを守らない者には有無をいわさず罰を課すといった態度の人たちが出てくるのだ。これはムーミン谷の住民には試練だ。これ、どうのりきるの、と心配してるところへ、スナフキンが火に油をそそぐようなことをしでかす。それはそれで、スナフキンの行動は理解できるのだけど、ここの様子からするとやばいことになりそう。
ニョロニョロのような超自然的存在により解決されて話がおしまい、と思ったのもつかのま、本書はちょっと違う展開になる。まだまだ、堅い壁にぶつかる感じだ。それでも、ムーミン家流のおだやかで決然たる姿勢はゆるぎがない。ムーミン谷の外の世界観とのぶつかりに、劇場空間というものを配することで、複雑な読後感になった。