70年代の感覚が横溢する新鮮なデビュー作(1979)。その後の村上春樹の数々の作品に通ずる諸要素の多くが既にはっきりと見られることに驚く。
30歳のときにジャズ喫茶を経営するかたわら書いた小説といわれる。そのデビューの時点でしか書けない、70年代末の感性のようなものが濃厚にただよっており、それは60年代に乗り遅れた世代のもつ特有の感覚にも通じるように思われる。それはかっこよさにあこがれつつ、クールに決めたいと思いつつ、決めきれない物悲しさのようなものである。
それらもろもろは曖昧模糊とした形で語られることはまったくない。主人公のガールフレンドや友人との関係などが、すべて、具体的に、かつドライに語られる。モダニズム文学における参照枠がヨーロッパ古典世界の文物だったとすれば、村上春樹のそれは70年代のライフスタイルであり、なかんずく、その重要な柱であるアメリカ文化、特に小説と音楽と酒である。挙げられる細かいディテールのいちいちが、そこしかないという弦の一番いい音を響かせるポイントを叩いており、判る人にはびんびん響くことだろう。
この種の参照枠のとりかたは当時は珍しいものでもなかった。本作の2年後に出た田中康夫の『なんとなく、クリスタル』など、その技法の突き詰めた形の引喩(allusion)の嵐ともいえるが、本作に比べるとやややり過ぎの感もある。
その点、本作における村上春樹は文体のドライさで、類似の作品群からは飛びぬけた位置にあるといえるだろう。自分の感性に対する全幅の信頼と、そのみずみずしさをとどめるために鍛え上げられた抑制のきいた文体とが、非常に印象的な作品である。
この文体が内包する類稀なアイロニーの一例を引いておこう。
年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。
主人公は古いレコードを繰返し聴く。時代遅れだ。それは百も承知のうえだ。しかし、それこそが、彼らの、あるいは僕らのロード・ミュージックなのだ。ほかに戻ってゆくところはないのかもしれない。いったい、ここから何が生まれるのだろう。答えは風に吹かれている。
投げやりのようにも見えるが違う。このうえなく誠実な態度でもある。彼らなりに。
矛盾をはらむようにも見える。何の洞察も得られないように見える。だけど、「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」と(架空の)作家ハートフィールドは語るのだ。その言葉に導かれるようにこの小説はつづられ、進んでゆく。