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生きる目的を問われる小説


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よしもと ばなな『王国〈その2〉痛み、失われたものの影、そして魔法』( 新潮文庫、2010)



 あなたは何のために生きているの? と問われる心地がする小説。

 『王国』第一部では魔女のおばあちゃんのもとで薬草茶の修行をしていた女の子、雫石(しずくいし)が山を下りることになる。おばあちゃんもマルタ島へ行ってしまう。都会に暮らし始めた雫石はリーディング能力をもつ占い師、楓(かえで)のアシスタントになる。サボテンの専門家、妻がいる真一郎と恋におちる。大切なサボテンを持ってきていたアパートが焼失する。こうした事件がいろいろ起こる。

 だけど、この第二部ではそうした外部のできごとより、もっと内部の、内面の魂と体の根本が問われる。都会流の処世術の根本が洗いなおされる。たとえば、「徹夜も、疲れているときの運動も、手術も、薬も、大食いも、菜食も、目的があってこそすることだ」と雫石は語る。

 はっとする。あまりにも当たり前のことであるけれど、当たり前だけに意識に上らせることがない。目先のことだけで、リスクを考えずに、悪いタイミングで実行すれば「ただ寿命が縮む」と断言するのだ。

 これは本当に小説なのだろうか。小説の体裁をとっているけれど、いま生きている読者に向けて、著者がダイレクトに問いかけている書物なのではないか。

 それだけに重いけれども、この重さはよしもとばななの文体があればこそ、受止められる。稀有な作家だ。生きることの「簡単なしくみ」を簡潔に語る。これはできそうで中々できることではない。思索をかさねたうえで、文章をとぎすます。その地道な作業のつみかさねから生まれた書だ。

 読めば読むほど魂が浄化される感じがする。

 世界を見つめる目も変わってくる感じがする。たとえば、都会的なやり方についての<失う痛みをうまくとりのぞいた代わりに、痛すぎることから目をそむけていられるように、ぼんやりとさせられている、そんな感じがした>のような文章を読むときに。

 本書で印象に残る箇所は多数あるけれど、中でも楓について「B級」と評した片岡への雫石の反論はこころにひびく。

「でも、楓が幸せならいいんじゃないかな、別にB級で。」
 自分が妙にきっぱりとそう言い切ったので、心からそう感じているということがよくわかった。
神様から見たら、さほどの差ではないでしょう。楓はすごく人に優しいし、丁寧だと思う。人の心を落ち着かせる。そういうのが得意な人がひとりくらいいたっていいじゃないですか。」


 雫石の言葉遣いはときにぱっと読んだらわからないことがある。「全部があって、そして透明がある。」はそうだ。でも、詩的だし、意味は実は明らか。このことについては説明が必要かもしれない。全部というのは全部のことで、それはすべてが透明というわけでもなければ、すべてが曇りというわけでもない。秋の高い空を見れば、「透明で、全てが明るみに出てしまうような感じがする。でも、ちょっと目をそらすと、そこには鳥とか、夏のなごりの雲だとか、秋になって咲き始めたキンモクセイの匂いだとかがある。」つまり、雫石は「一点の曇りもない事実が知りたい」とは思っていないのだ。人生で出くわす謎とか曇りとかは、放っておくと、どんどん大きくなり、世界を覆い隠すかのように思えるかもしれないけれど、幸いそういうことはない状態に雫石はいまあるということなのだ。冷徹な観察者の資質はまさに詩人を想わせる。

 それから、「その笑顔はとても正直なものだったので、空間を強く照らした」のような言い方は、ありそうでめったにない表現だ。ちょうど英語の 'beam' という動詞の感じにそっくりだ。

 本書は『王国』四部作の第二部として、雫石にとって通らなければならない大事な変化の過程が丁寧に描かれる。変化には苦痛もともなうけれど、最後には人間についての神秘的で壮大なヴィジョンに到達し、それを読者も共有するような境地にいたる。そのうえで、雫石の<私のためだけに生きるのなら、私はすごく小さい>の言葉になぐさめを感じるのである。