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「UR.」(1973)


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 やっと「UR.」を手に入れた。その中身についての覚書。

 発行が1973年9月10日。「価800」とある。発行所が東邦書房。

 編者が若夏(うりずん)社。


 文庫本サイズ。表紙は右の書影の通り。文庫版といえ、光沢のある上質の紙が用いられ、ずっしりと重い。私が手に入れたのには帯がなかったが、元はあったようだ。


 目次を開ける。梨木香歩が「本の旅人」に連載中の小説「きみにならびて野にたてば」の第1回(2012年10月号)に引いたのとほぼ同じ内容の目次だ。

 一点だけ大きな違いがある。この雑誌を「とりまとめて」いるらしき著者の名だ。梨木が「林 昇順」と記す。「きみにならびて野にたてば」が小説=フィクション=虚構という仕立を取らざるを得ない事情がのちに徐々に明らかにされる。その著者の「巻頭言とおぼしき」「葉緑素の思想」を梨木が全文引用したわけがどこにあるのか。


 「きみにならびて野にたてば」が「職業は詩人で通しているが、これから私が書こうとしているのは散文だ。」の文で始まること。このことも、これがフィクションであることを意識させるものとなっていたが、井坂洋子の『詩はあなたの隣にいる』の書評で<私のアイデンティティは、口幅ったいが、今でも内奥深く降りると「詩人」であるはずだ。>と書いている(「ちくま」2015年2月号)。これからすると、「きみにならびて野にたてば」がある程度自伝的なものであることは疑いないように思われる。



 「UR.」の各章に扉絵が附いている。「葉緑素の思想」の扉に「UR EXISTENZ manifest des Blattgrün:yi seung yun」とある。コロンと「yi」の間に空白がない。ふつうは空白を入れる。(右の写真がこの章扉。)

 このことばが、言語的に不明瞭だ。「manifest」が何語か。「des」がフランス語の「de + les」だとすれば、「manifeste」のつもりかもしれぬ。「Blattgrün」がドイツ語の「葉緑素」であることが明白ゆえ、最初の語がドイツ語の「Manifest」である可能性が少しあるか。いづれにせよ、「Blattgrün」がドイツ語の複数2格なのだろう。全体で「葉緑素宣言」の意だろう。

 本書に収められている「日姫・月姫・星姫」という題の朝鮮の民話を国立国会図書館サーチなどで検索すると福音館書店刊の月刊誌「子どもの館」1979年10月号(7巻10号)の66-75ページに掲載されていることが検索結果として得られる。

 「葉緑素の思想」全文が「きみにならびて野にたてば」第1回に引かれる。「UR EXISTENZ」が「葉緑素の思想」の中で《原存在》と記されるが、その直前に「人間のなかに成長する果実、存在のさ中に熟れしたたる果肉、−−原言語を肉体にすること。」と書かれ、直後に「童性は、創造的なるものの窮極の母胎である。」と記されている。


 つぎの章が「文学気象図」。最初に高村光太郎の「宮澤賢治−−コスモスの所有者」。「内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する」と、詩人(Dichter)宮澤賢治を讃える。「彼の詩篇は彼の本体から迸出する千のエマナチョンの一に過ぎない。」と、深い源からわきでる詩を絶賛する。(この項ここまで)


〔附記〕 梨木香歩の連載中の小説「きみにならびて野にたてば」の第21回(「本の旅人」2015年4月号)で「UR.」(1973)からもうひとつ全文引用しているのが宮澤賢治「連れて行かれたダァリヤ」。注につぎのように書いてある。

本稿は宮沢賢治の童話「まなづるとダァリヤ」の初期稿(原文のまま)である。宮沢家の御好意を得て、ここに初公開する。

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