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フレーズの切れ目、さくら phrasing, articulation


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 詩歌の言語が、その詩歌に基づく楽曲の演奏表現にどのように影響を与えるかということ、これを説明するうまい例はないかと考えている。(別の記事「三月に」参照)

 突拍子もないようだが、日本語の「さくら」を想いつく。この語を用いて詠う(歌う)場合、皆さんならどういう意識でやるだろうか。平板に三音等価に 〈さ・く・ら〉 か、間で少し区切る意識で 〈さ・くら〉 か、〈さく・ら〉 か。

 これを楽曲として演奏する場合、この言葉の上の意識というのはフレーズの表現、具体的にはフレージング(句切り)やアーティキュレーション(音符の関連性、歯切れ)に微妙に影響を与える。言葉の意識に応じて弾き方が変わるといってもよい。ジャズなどの演奏でも、これは根幹の部分である。歌詞を無視したアーティキュレーションなど、あり得ない。

 ある程度速いテンポなら、一まとまりに 〈さくら〉 つまり、三音等価の 〈さ・く・ら〉 をベースにしても表現できるだろう。が、ゆっくりのテンポならどうか。どうしたって、どこかで切るところが発生する。つまり、何を最小限の一まとまりとするかを決断せねばならない。この過程を経れば、逆にアップ・テンポになった際も、その区切りの意識は生かされる。

 こうした問題を考えるときに拠りどころになるものは何か。その言語のアクセント(日本語ならピッチ・アクセント、つまり高低のアクセント)やモーラ(〔短〕音節の長さ〔を示す単位〕)なども当然考えに入れてよい。

 が、もう一つ、違う立場があり得る。それは、言葉の由来や来歴、その言葉が生まれて以来の来し方に想いを馳せる立場である。この立場は、方言による発音の違い(本来は語源に由来するだろう)などよりも或いは強力な影響を与えるかもしれない。ことに詩歌の場合には、言葉の歴史は重要な意味を有する。その言葉でうたってきた詩人たちの重みがそこに加わるからである。言葉は平板な一面的なものでなく、重層性を備えたものとして立現れる。

 「さくら」の語源には諸説あるが、一つには「さ」と「くら」に分けるものがあるという。前者は穀物の霊、後者は神霊が宿るところの意とする。いかにもさくらの季節にふさわしい。桜の開花時期と農作業との関連から、田植えを始める前に桜の木の下で豊作を祈願したのがお花見の起源であるとの説もある。桜の木の根は地熱に反応する敏感なセンサーであるとの立場から地球の変化の指標として桜の開花を観察していたということも考えられるが、古代人がこれに穀物の霊の宿りを感じていたとしても不思議はない。素朴であるようでいながら、実に緻密な自然観察に支えられた智慧の粋ともいえる。言葉の歴史は人類の来し方行く末に思いをいたす良いヒントになる。

 ともあれ、一旦これを意識すると、もはや 〈さく・ら〉 と切るようなことは出来なくなる。そう切れば不自然というより、言葉を破壊してしまうという思いが働くからである。だけど、ぼくは今まで「桜咲く」などの語呂合わせから、なんとなく、〈さーくー・らー〉 と歌っていたような気がする。これからは 〈さー・くーらー〉 と歌いたい。

 こういう風に意識すると、楽器で演奏する場合でも変わってくる。〈さーくー・らー〉 ではなく、〈さー・くーらー〉 と、〈くら〉 にまとまりを保持した演奏になるだろう。ほんの微妙な差であるけれども、ある意味では決定的な違いである。

 こうしたことを、アイルランド語の詩歌について考え、それを楽曲やダンスや、もちろん歌に、活かしてゆきたいと思うこの頃である。

 

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