Tigh Mhíchíl

詩 音楽 アイルランド

記事一覧

新・百人一首に撰ばれた明治から平成の百人の歌人


[スポンサーリンク]

文藝春秋 2013年 01月号」

 

 本号には興味深い特集がいくつもあるが、短歌欄でも知られる「文藝春秋」誌が平成版の『小倉百人一首』を編んだ。題して「新・百人一首――近現代短歌ベスト100」。選者は岡井隆、馬場あき子、永田和弘、穂村弘の四名。つづく選考座談会「短歌のある国の幸せ」の記事で、選にあたった歌人たちの思いの一端が明らかにされる。

 合計で44頁あり、短歌好きなら見逃せないだろう。なかなか外部からは窺い知れない〈短歌(界)の現状〉も少し分かる。たとえば、座談会で岡井隆(重鎮中の重鎮)は、いまや誰も批評してくれないと嘆き、「叱ってくれる先輩がいないというのは寂しいもんですよ」と語る。それゆえ、選考座談会が一種の合評会のような機会になったのはありがたいと、お世辞でもなさそうな本音も吐露する。

 明治から平成にかけての歌人を百人えらび、それぞれの秀歌を一首ずつ撰ぶというのは大変だったろうと思う。座談会では悩みぬいた選者たちの素顔も垣間見える。

 当然のことながら、読者の興味は、自分の好きな歌人はいったいどの歌がえらばれているのだろう、というところに集中するだろう。が、評者の場合は、すぐれた歌人でもある各選者が何をえらんだかに最大の関心があり、中でも穂村弘の選および選評をわくわくしながら読んだ。

 穂村がえらんだ最も古い歌は前田夕暮の〈木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな〉(明43)。新しいほうの歌には米川千嘉子の〈名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ〉(昭63)があり、これに附した解説が秀逸。

「名を呼ばれしもののごとくに」という詩句は忘れがたい。眼前の景に対して咄嗟に口を衝いて出たかのような生命的な表現であり、譬喩とか擬人化とかの技法レベルを超えている。樹も星も動物も虫も花も人も、この世界の全ての命が息づくように「やはらかく」響き合っている。

ああ、いかにも現代的な感性だと思う。ル=グウィン的な感性だとも。

 穂村は平成からは水原紫苑(しおん)の〈まつぶさに眺めてかなし月こそは全(また)き裸身と思ひいたりぬ〉(平1)をとる。たいへん平成らしい瑞々しさであると思うと同時に、動詞「眺める」がたどってきた歴史をも想わせる。物思いにふけりながら月見る伝統は今ここに至ったかと感じさせるのである。穂村はこう解説する。

「月」こそが完全な「裸身」であるという。意表を突かれながら納得してしまう。太陽は直視できず、星々の瞬きは余りに遠い。「月」だけがその姿を隠すことなく人々の目に曝している。その美しさと悲しみ、同性への眼差しを思わせる「まつぶさに眺めてかなし」が胸を打つ。

 このように、本特集は読みごたえがあるが、「新・百人一首」の最後は穂村のつぎの歌で締められる。〈ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。〉(平13)――これを撰んだのは馬場あき子。選者どうしの応答が地下水脈のように読取れて、たのしい。

 下に掲げたのは北海道のご自分の庭の写真を撮っておられるサイト「豊穣の森」(現在はないようだ)にあった朴の木(ホオノキ)。

f:id:michealh:20150922221859j:plain

〔初夏の北海道の森の朴の木。手前は勿忘草と撫子。〕