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笑いの神話化 Mythologie de rire


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又吉 直樹『火花』文藝春秋、2015)



 日本というのはいい国だ。こんな素敵な小説が賞を取るのだから。

 読み終わるのが惜しい気持ちになる小説が稀にある。終わりが近づくにつれて、もっともっと読んでいたいと思う小説だ。これはそんな小説である。おもしろいとか感動させるとか━━その要素はたっぷりあるのだけれど━━、そういう評語を超えたところに屹立する奇蹟のような作品だ。

 評者の読書体験の中でそれに類するものを探すと20世紀のモダニズムのある種の叙事的な作品に構造的に近いものを感じる。神話と現代とが重置されることで認識の新たな地平が開けるような作品。たとえば、『パタスン』『マクシマス詩篇』『詩章』といったものだ。だけど、何よりその猥雑な笑いのアイロニカルな資質において『墓場の土』や『ユリシーズ』を想わせる。

 作者はプロットなぞ決めずに書き始めたと自ら語るが、それは明確な方法論に基づいている。自分の狭さ、自分の能力の低さ、自分の限界を超えられる唯一の方法。自分の書いたものに自分で反応してゆくのだ。そこに思いもかけない認識の跳躍、すなわち最も高度な意味での笑いが現出する。しかし、その認識は往々にして世界と人間に関して、聞く人の心を射抜くようなとんがりを含み、そのことが思わず涙をもたらす。かくして、〈泣き、かつ、笑う〉というあの、懐かしくも日常からは殆ど失われた時空が生まれる。そこへ入ってしまうと暫く既知の周囲の環境は飛んでしまう。

〔追記〕
『火花』担当編集者の浅井茉莉子さんによると、〈不要なシーンはカットし、登場人物を加え、4、5回と改稿。又吉は掲載の直前までゲラを真っ赤にした〉という。