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ソロモンとシバの女王を芥川と片山に重ねてみると


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芥川龍之介「三つのなぜ」

 

 芥川龍之介(1892-1927)の最晩年の短篇小説である。

 1927年に発表された。ところが、作品に「(一五・四・一二)」の但書が附されている。大正15(1926)年4月12日と、わざわざ記されていることになる。これは何を意味するのか。
 この点に関し、片山廣子のエッセイ「乾あんず」(1948)と、片山廣子芥川龍之介宛書簡(1924年9月5日附)とを、併せ読むと、謎の一端が解けてくるように思われる。すなわち、芥川の最後の恋人であった片山と芥川の間でしか分らぬ事情がこれら三篇の背後にあるとすれば、それぞれに含まれる謎めいた記述が幾分か意味をなしてくるように思われるのである。

 しかし、そのようなバイオグラフィカルな読みを斥け本文テクストのみを厳密に読むべしとの立場も当然あり得る。そこで、ここでは、本文に関わることを簡潔に述べ、そのあとに、伝記的読みとして、片山と芥川との関係に関わる部分のみを抜粋することにする。

 本作品は「一 なぜファウストは悪魔に出会ったか?」「二 なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?」「三 なぜロビンソンは猿を飼ったか?」の三つのなぜから成る。

 第一は「林檎とは一体何であるか?」の問題を考え続けるファウストに焦点を当てたもの。神に仕えるファウストとしては林檎は「智慧の果」であったが、油絵を見ているとき林檎は近代の「静物」でもあると思うようになる。ある午後、その謎を考えているファウストのいる書斎に一匹の黒犬がはいって来る。黒犬はたちまち騎士に変わり、ファウストを路上へ連れてゆき、ファウストが考えてもみなかった林檎の相を見せる。

 第二はなぜソロモンが「生涯にたった一度シバの女王に会っただけだった」のかを物語る。「シバの女王は美人ではなかった。のみならず彼よりも年をとっていた。しかし珍しい才女だった。ソロモンはかの女と問答をするたびに彼の心の飛躍するのを感じた。」と語られるにもかかわらず、なぜソロモンはシバの国を訪れなかったのか。それは「ソロモンは同時に又シバの女王を恐れていた。それはかの女に会っている間は彼の智慧を失うからだった。少くとも彼の誇っていたものは彼の智慧かかの女の智慧か見分けのつかなくなるためだった。」という。しかし、簡単に割切れぬ問題でもあった。「ソロモンは彼女の奴隷になることを恐れていたのに違いなかった。しかし又一面には喜んでいたのにも違いなかった。この矛盾はいつもソロモンには名状の出来ぬ苦痛だった。」と語られるのである。こうしたソロモンの内面の苦悩を窺わせるのは、ソロモンの詩歌である。

わが愛する者の男の子等の中にあるは
林の樹の中に林檎のあるがごとし。
…………………………………………
その我上に翻したる旗は愛なりき。
請ふ、なんぢら乾葡萄をもてわが力を補へ。
林檎をもて我に力をつけよ。
我は愛によりて疾みわづらふ。

このようなソロモンの心境はつぎの詩歌で頂点に達する。

番紅花(サフラン)の紅なるを咎むる勿れ。
桂枝の匂へるを咎むる勿れ。
されど我は悲しいかな。
番紅花は余りに紅なり。
桂枝は余りに匂ひ高し。

 聖書でソロモンとシバの女王の場面が描かれるのは列王記上第10章1-13節である。新共同訳により引く。 

 シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった。
 シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。
 女王は王に言った。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」
 彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。
 また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作った。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかった。
 ソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。

 「妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室」がいたソロモンがなぜシェバの女王のことが忘れられなかったのか。芥川が引くソロモンの歌「わが愛する者」〔おとめの歌〕(雅歌第2章3-5節)をやはり新共同訳で引く。

若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
森の中に立つりんごの木。(略)
その人は(略)わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。
ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。
わたしは恋に病んでいますから。

 ところが、もう一つの「番紅花の紅なるを咎むる勿れ」の歌は知るかぎり聖書にない。芥川はどこからこの歌を綴ったのか。この歌が一つの鍵になりそうである。

 第三の話はロビンソンに関する掌編。「いつも猿を眺めてはもの凄い微笑を浮かべていた」ロビンソンを描く。短すぎて手がかりが少ないが印象に残る。

 この作品の2年前の片山廣子から芥川龍之介宛の書簡は未公開だが、藪野直史氏が復元しておられる。その書簡を入手した吉田精一の文章をもとにした復元版を引く。1924年7月から8月にかけて旧知の芥川龍之介に軽井沢で会った片山廣子芥川龍之介に書いた手紙である。

二日か三日の夜でした氣分がわるくて少し早くねました星が先夜ほどではなくそれでもめについて光つてゐましたふいとあなたのことを考へて今ごろは文藝春秋に小説學の講義でも書いていらつしやるかしらと思ひました それから何も考へずにしばらくねてゐましたがそのあとでとんでもない遠いことを考へましたそれは(おわらひになつては困ります)むかしソロモンといふえらい人のところへシバの女王がたづねて行つて二人でたいへんに感心したといふはなしはどうしてあれつきりになつてゐるのだらうといふうたがひでした。(略)
わたくしたちはおつきあひができないものでせうか〔……〕あなたは今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはないとおつしやいましたが〔……〕

 この作品から20年以上たった1948年に発表された片山廣子のエッセイ「乾あんず」に、亡き芥川龍之介のことを想って書いたと思しき一節がある。

 乾杏子からほし葡萄を考へる。ほし棗を考へる。乾無花果も考へる、どれもみんな甘く甘く、そして東洋風な味がする。過去の日には明治屋か亀屋かで買つて来て、菓子とは違ふ風雅なしづかな甘みを愉しく思つたものである。ゆくりなく今度の配給で、すこしも配給らしくない好物を味はふことが出来た。私はことに乾いちじくが好きだつた。むかし読んだ聖書の中にも乾いちじくや乾棗が時に出てくる。熱い国の産物で、東方の博士たちが星に導かれて、ユダヤベツレヘムの村にキリストの誕生を祝ひに来たときのみやげ物の中にもあつたやうに思はれる。ソロモン王の言葉にも「請ふ、なんぢら乾葡萄をもてわが力をおぎなへ、林檎をもてわれに力をつけよ、われは愛によりて疾みわづらふ」と言つてゐる、雅歌の作者はこんな甘いものや酸つぱい物を食べながら人を恋ひしてゐたらしい。
「もろもろの薫物(かをりもの)をもて身をかをらせ、煙の柱のごとくして荒野より来たるものは誰ぞや」ソロモンがシバの女王と相見た日のことも考へられる。世界はじまつて以来、この二人ほどに賢い、富貴な、豪しやな男女はゐなかつた。その二人が恋におちては平凡人と同じやうになやみ、そして賢い彼等であるゆえに、ただ瞬間の夢のやうに恋を断ちきつて別れたのである。
シバの女王ソロモンの風聞(うはさ)をきき、難問をもつてソロモンを試みんと甚だ多くの部従(ともまはり)をしたがへ香物とおびただしき金と宝石とを駱駝に負せてエルサレムに来たり、ソロモンの許に至りてその心にあるところを悉く陳べけるに、ソロモンこれが問にことごとく答へたり。ソロモンの知らずして答へざる事はなかりき。
 シバの女王がソロモン王に贈りたるが如き香物はいまだ曾てあらざりしなり。ソロモン王シバの女王に物を贈りてその携へ来たれる物に報いたるが上に、また之がのぞみにまかせて凡てその求むる物を与へたり。」
 旧約聖書の一節で、ここには何の花のにほひもないけれど、二人が恋をしたことは確かに本当であつたらしい。イエーツの詩にも「わが愛する君よ、われら終日おなじ思ひを語りて朝より夕ぐれとなる、駄馬が雨ふる泥沼を終日鋤き返しすき返しまた元にかへる如く、われら痴者(おろかもの)よ、同じ思ひをひねもす語る……」詩集が今手もとにないので、はつきり覚えてゐないが、女王もこれに和して同じ歎きを歌つてゐたやうに思ふ。
 彼等がひねもす物語をした客殿の牀(とこ)は青緑(みどり)であつたと書いてある。あまり物もたべず、酒ものまず、ただ乾杏子をたべて、乾葡萄をたべて、涼しい果汁をすこし飲んでゐたかもしれない。女王が故郷に立つて行く日、大王の贈物を載せた数十頭の駱駝と馬と驢馬と、家来たちと、砂漠に黄いろい砂塵の柱がうづまき立つて徐々にうごいて行つた。王は物見台にのぼつて遥かに見てゐたのであらう。
 女王が泊つた客殿の部屋は美しい香気が、東洋風な西洋風な、世界中の最も美しい香りを集めた香料が女王自身の息のやうに残つてゐて王を悲しませたことであらう。「わが愛するものよ、われら田舎にくだり、村里に宿らん」といふ言葉をソロモンが歌つたとすれば、それは王宮に生れてほかの世界を知らない最も富貴な人の夢であつた。あはれに無邪気な夢である。

 ここで片山廣子が「二人が恋をしたことは確かに本当であつたらしい」と書くのは、聖書の読みから導かれたというよりは、やはり芥川龍之介と自分との関係に重ねてのことだったろうと考えられる。なお、片山廣子が引用している聖書は文語訳聖書である。

 つまり、以上の材料、もしくはその周辺の材料を可能なかぎり加味して、1924年の片山から芥川への手紙 → それに応えた1926年の芥川の小説 → 芥川の死後、真情をこめて応えた片山の1948年のエッセイという筋道を、その文学的香気をふくめて味わうことができるかもしれないと考える。

  

三つのなぜ

三つのなぜ