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赤ん坊は豆のスープの匂いがする


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宮下奈都「日をつなぐ」(『コイノカオリ』所収、2004)

 

 宮下奈都のデビュー作「静かな雨」につづく第2作。恋の匂いをテーマにした書下ろしの作品6点のアンソロジー『コイノカオリ』(2004年12月)に収録された。

 恋の匂いがテーマだと思って読み始めると、最初の文が「私は赤ん坊を抱いている。」だ。ああ、恋の相手とは結ばれたんだなと思う。

 その赤ん坊に頬をよせると「おだやかに寄せる波のような寝息。あまやかな匂い。」これは赤ん坊の匂いだ。

 台所の鍋から豆を煮る匂いが立ち昇る。「たゆたゆとやわらかく、しばらく漂っていてふっと消えてしまいそうな匂い。」たゆたゆと、はいい。これは赤ん坊の匂いだと語り手は気づく。「この子は豆のスープの匂いがしている。

 つづくのは豆好きにはたまらない文章。

ひよこ。レンズ。金時。小。大。手亡。ムング。大福。黒目。虎。うずら。豆を煮るのはからだのためでもあり、家計のためにもなり、何より味わいのためになる。

 まるで豆が生活のリズムになっているようだ。語り手はひとりで豆のスープを飲む。すると、こう感じるのだ。「豆のスープからは赤ん坊の匂いがしている。」

 「修ちゃんと初めて会ったのは十四歳の秋だった。」とあり、その後おなじ高校に行く。卒業すると修ちゃんは京都の大学に進み、語り手は地元で就職する。京都へ遊びに行き、彼の下宿にいたとき、「アフリカとブラジルって、ずっと昔、ひとつづきの大陸だったんだって」と言われ、帰りの特急に間に合うように焦っているときに地球の反対側の話なんか聞きたくないと思う。

 ところが修ちゃんは「真名と俺は、アフリカとブラジル」とだけ言って出て行ってしまう。

 そんな二人が結婚してからは、夫は仕事が忙しく、妻は授乳で睡眠不足。すれ違いも起きる。妻の内側から起きる名状しがたいマグマの高まりは、これはもしかすると男性の読者に読ませたいのかもしれないと思えるくらい痛烈。

 母となっても女性として、何よりひとりの人間として生きて行きたいという語り手の思いが、静謐な文体で淡々としかし芯が太く綴られてゆき、まるでこのひとがすぐそばにいるように感じられる小説だ。