人の心の中以外の場所に痕跡を残したくない
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池澤夏樹『骨は珊瑚、眼は真珠』
死んだ夫が残された妻にあてて書いた形をとる小説(1995年)。
小説は夫の骨を妻がひろう場面から始まる。それからしばらく、死を前にしたころについての夫の回想がつづく。
家に戻った妻は短い英語の文を骨壷の前にピンで止める。「父上は五尋の海の底/その骨は珊瑚と化して/眼であったものは今は真珠/身体はすべて朽ちることなく〔略〕」という、シェークスピアのロマンス劇『あらし』1幕2場の一節。この四行は交互韻をなす4強勢詩行で、通常5強勢無韻詩の彼の劇詩で突出する箇所である(lies - eyes / made - fade)。二十世紀前半にT・S・エリオットが長詩『荒地』で「眼であったものは今は真珠」の一行を効果的に使ったことが有名である。
まだ珊瑚にはなっていないが骨のみと化した夫の姿にあまりにぴったりな引用をするわけは、妻が女子大の英語英文学の教師だからである。
妻が生前の夫の頼みを実行するべく乳鉢と乳棒を理科実験器具の店に買いに行く場面がある。夫が散骨を頼んだらしいことが浮かび上がる。「すりこぎとすり鉢ですませてもよかったのだが、それではあまりに食べる物との関連が強すぎて抵抗感がある」などとの話が出てくる。
この箇所を読んでおやと思った。柴崎友香「春の庭」で、主人公・太郎が父の骨を粉にした茶碗サイズのすり鉢と乳棒の話を思い出したからである。太郎はそのセットを食器棚の奥に置いていた。「すり鉢にしたのは間違いだった。溝に入った骨がなかなかとれなかった。」との一節が妙に印象に残る2014年上半期芥川賞受賞小説であった。ひょっとすると、本書の乳鉢と乳棒をめぐる夫婦の会話を、柴崎が、すり鉢と乳棒をめぐる太郎と元妻との会話に変奏したのかもしれない。文学というのは意外なところに地下水脈があるものである。
夫がそう望んだ理由がこう語られる━━「わたしはすっかり消えてしまいたいと願った。どんな意味でも人の心の中以外の場所に具体的な形で自分がこの世にあったことの痕跡を残したくない。」
「生に執着しな」いと断言した夫ではあったが、これ以上の愛の告白があるのだろうか。