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フランシスコ会によるヘブライ語詩編の現代日本語訳


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フランシスコ会聖書研究所『聖書詩編―原文校訂による口語訳』中央出版社、1968)



 途方もない時間と研究とが投入された詩編の口語訳。六年の苦心のすえマソラ本ヘブライ語テクスト(10世紀の写本)を本文批判しつつ現代日本語に翻訳し、1968年に出版。当時のカトリク聖書学の水準を示す労作である。入手困難だが今でも読む価値は大いにあり、手に入るならできればハードカバーがよい。約五百頁の本をペーパバックで読み続けるのは辛い。

 想定される読者は詩編を原文に照らして読むことに関心がある人ということになるだろう。聖書学研究者、一般信徒、信仰に関わりなく詩編に関心ある人等々。そういう観点で参考になる日本語の本といえば、知る限りでは本書以外に、岩波版旧約聖書第十一分冊『詩篇』とミルトス版ヘブライ語聖書対訳シリーズ32-34『詩編 I-III』、それに勝村弘也の『詩篇』くらいだろうか。加えて本訳の成果をふまえ簡潔な脚注を添えてコンパクトにまとめた詩編小委員会訳の『ともに祈り・ともに歌う「詩編」現代語訳』が1972年に出版されている。それ以外に注解書や研究書が多い。後述の並行法を念頭において読むためには左近淑『詩編を読む』が参考になる。

 詩という文学としてみるならば、もちろん翻訳の日本語そのものが問題になる。神の民の歌であり、神の民の祈りであり、黙想の書であるけれども、スタート地点の日本語は詩として読めるものであることが望ましい。言うは易く行うに難い課題だけれども。新共同訳聖書(初版1987年)に収められた詩編の翻訳は太田治子太宰治の娘)であるとの話をある座談会の記事で読んだことがある。詩の翻訳は基本的に詩人がなすべしと評者は考えるが、そうは言っても研究者なみの学殖を詩人が備えるのは稀有な例であろう。研究成果をできるだけふまえつつ、詩的文才を備えた人が翻訳するのが現実的だろうか。

 ともあれ、本書は詩編を探求するには恰好の書である。いろいろのことが本書からわかるが、覚書を二点しるす。翻訳の底本がマソラ本ヘブライ語テクストであること。この点はどんな現代語訳でも同じはずである。この〈マソラ本の子音文字は原典から受けついできたもの〉である。ただ、母音符号(マソラ点)が紀元後数世紀たってからテクストにつけられている。〈四三〇年に死去したヒエロニムスが、旧約聖書ラテン語に訳すときに用いたヘブライ語テキストは、母音符号のないもの〉であった。本書では基本的にマソラ本の読み方に従っている。本書の底本テクストは R. Kittel, P. Kahle, Biblia Hebraica, Stuttgart (1937/1951) である。本書を手にとろうというような人は(後年の版を)たぶん持っているだろうけれど。

 もうひとつ。詩編は韻文である。といっても、ふつうの韻をふむというようなものでない。ヘブライ詩の(そして実は古今東西のすべての詩の)基本的構造は並行法(parallelism)である。本書では「対句法」の語を用いてその翻訳のしかたを説明する。〈詩編は一つの行と次の行とを対立並行させる特徴〉がある。そこで〈一つの動詞だけが通常、第一行に用いられ、第二行では省かれている〉。本書の訳し方は、そのままにする、同じ動詞を繰返す、同義語を補充する、の三つの方法をとった。つまり、通常の日本語のように、第二行の末尾に動詞を置くというやり方はとらなかった。

 原文に照らして詩編を読むといかに実りが多いかの実例を一つだけ挙げよう。詩編23の冒頭の3節を引用する。

1 ヤーウェは わたしの牧者。
 わたしには 乏しいことがない。
2 ヤーウェはわたしを 緑のまきばに いこわせた。
 わたしを もの静かな水べに 伴い、
3 魂を生き返らせ、
 み名にふさわしく 正しい道に導かれた。


ここで本書は〈2節の「伴い」と3節の「導く」という二つの動詞は、ヤーウェがイスラエルの民を荒れ野を経て約束の地に導いたことをうたった出〔エジプト記〕15.13の歌の中に用いられた動詞と同じである〉と註釈する。ここから〈本詩は、イスラエルの民を導いた牧者としてのヤーウェをうたったものであろう〉という解釈が導かれる。(これについては、ヤーウェは「わたしの羊飼い」として描かれているとする勝村の異論がある。)

 なお、例えば新共同訳で同じ箇所を見ると2-3節が5行で訳されており、しかも3節前半で句点で文が閉じられ、一行あけられている(電子版など版により多少の違いがある)。原文の解釈がいろいろあるにせよ、これでは(出エジプト記に発する)並行関係が殆ど見えないだろう。訳は新しければいいというものでもないのである。

 二つの動詞の出典に関する指摘は岩波版にない。もちろんミルトス版にもない(が、動詞の語根がきちんと書いてあるので手がかりになる)。註釈は新しければいいというものでもない。

 詩編は全部で150編ある(東方教会は151編)。その分類や文学的類型や聖書の中での位置など、考えるべきことは多いけれども、一読者としては味読し黙想するに足る「詩」としての詩編翻訳を待望する。


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