寺田寅彦『数学と語学』
物理学者の寺田寅彦 (1878-1935) の随筆である。本書と似たようなテーマの『科学と文学』とか『俳句と地球物理』などの著作もある。広くいえば、科学的思考と人文的思考の関りや比較に関心があるのであろう。
しかし、実験物理学や地球物理学を研究する人間が、どうして文学に興味をもち、随筆などをものするのであろうか。
寺田が自然科学への眼を開かれたのは五高 (熊本) 在学中のことであったが、同じときに英語教師・夏目漱石に出会って文学への開眼をしている。〈教室で英語を習い、自宅で俳句を学び、その紹介で上京後正岡子規を訪ね、俳句や写生文を《ホトトギス》に寄せるにいたった〉(藤井 陽一郎、遠藤 祐)。
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寺田の関心の推移をみて、やっと本書のテーマをなぜ思いついたかが、おぼろげながら分った。寺田はそういう言葉を使っていないが、言葉にひそむ数学的なるものを五高時代以降に体得していたのだ。もし、寺田が今日の言語学的な方法論を知っていたら、それはまさに音韻論 (prosody) の世界であると気づいたであろうが、そのような言及はもちろんない。そのような方面の言語学が発展するのは、寺田の没後ずいぶん経ってからのことである。
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以上のことは、音韻論をやる人なら自明のことだろうが、それはいわば後知恵である。寺田の時代にそのような認識があったかどうかは分らない。
もしも、詩的言語の音韻論における数学的側面に関心があれば、キパースキー (Paul Kiparsky, 1941- ) が開拓した生成韻律論 (generative metrics) の方面の研究を参照されたい。
おそらく、寺田は、西欧語におけるその種の考え方よりはむしろ、日本語におけるモーラ (mora) から来るリズムにひそむ数学性を直観的に会得したのだろう。
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前置きが長くなったが、本書でまず述べられることは、入試の成績を調べたところ、数学の点数と語学の点数に統計的相関があったという話である。物理学者の世界認識の基本は数学であるから、どんな事象でも数学的に還元して考えるのはふつうのことだが、入試の点数の間に相関を見つけたというのである。
それに対する寺田の感想は、〈きわめて当たりまえのようにも思われる〉と、まず書く。それはそうであろう。学生時代、周りをみまわして、数学の点も英語の点もよい者はいたものである。べつに珍しいことでもない。
しかし、ここから寺田の独創的な着想が始まる。〈もしやこのふたつの学科がこれを習得するに要する頭脳の働き方の上で本質的に互いに共通な因子を持っているようなことはないか〉と述べる。この問題は現在なお考えるに値する興味深いものだ。
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これに対する考え方は、現在だとおそらく言語の学の数学的な側面に着目するだろうが、寺田の時代は違った。逆に、〈数学も実はやはり一種の語学のようなものである〉と考えるのである。これは実に興味深い。寺田はこう書いている。
いろいろなベグリッフがいろいろな記号符号で表わされ、それが一種の文法に従って配列されると、それが数理の国の人々の話す文句となり、つづる文章となる。