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イスカンデルの代表作。絶えずあさっての方角から球が飛んでくる愉しさ


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ファジリ・イスカンデル、浦 雅春・安岡治子訳『チェゲムのサンドロおじさん』国書刊行会、2002)



 黒海東岸の国、アブハジアの作家、ファジリ・イスカンデル(1929- )の代表作『チェゲムのサンドロおじさん』シリーズ(32篇はあるが未完、1966-1989)の中短篇を7篇おさめる。翻訳は「ベルシャザルの饗宴」「略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」を安岡治子、残り5篇とあとがきを浦雅春が担当。〔アブハジアは日本政府から見ればジョージア(グルジア)北西部の自治共和国。ロシアなどはアブハジアの独立を承認している。〕

 題名から連想されるような子供向きの話でない。


「チェゲムのサンドロおじさん」
 主人公サンドロと公爵夫人の恋をえがく表題作。サンドロはある勘にすぐれる。「知己でもない人のなかから手厚い持てなしをしてくれそうな人物を嗅ぎ当てる」勘で、「たゆまぬ努力の結果、おじさんはこの勘を絶対音感の域に高めた」という。それを「たゆまぬ努力」というのだろうかと、読者は訝しむが、ともあれ、そういうおじさんの恋の顛末が語られる。

 恋がたきの若者に銃弾を打込まれ、二ヶ月間、サンドロは病床に伏すが、医者は治療もせずのうのうと寝ており、公爵夫人はサンドロのベッドにもぐり込む。

 当時はメニシェヴィキ(ボリシェヴィキと対立する少数派)が暗躍する不穏な時代であったが、サンドロがアルメニア人(トルコでの大虐殺の難を逃れてきた)の煙草作りの家に一夜の宿を借りたときも、メニシェヴィキの部隊が襲ってきて、危うく殺されかける。

 このように、サンドロは生涯で何度も殺されかける。起こったことの経緯を見れば深刻な事態なのだが、物語からはいっこうに深刻さが伝わらない。むしろ、牧歌的な寓話でも聞かされている心地がする。そういう語りなのだ。

 ローマ以来の詩のジャンルに牧歌(eclogue)というのがあるが、アイルランドの詩人シェーマス・ヒーニは牧歌が持つ、極限状況で発揮される力について論じており、それこそが時代を超えてこの詩形式を存続させてきたと述べる。イスカンデルはもともと詩人だったので、こういう詩の力は知っているに違いない。


「自宅のサンドロおじさん」
 蜂蜜を町に住むサンドロに届ける話。サンドロは「私」が「戦前と比べてずいぶん大きくなったなあ」と、驚く。「私」のほうは、「いやはや、以前と変わらなければ、そっちの方が驚きである」と思う。

 真面目な話と思って読み進めていた読者は思わず噴き出しそうになる。一瞬、ユーモア小説かと錯覚する。いやいや、そうではない。

 サンドロが「私」にする話を聞いていると、時代感覚がふっと分からなくなる。いったい、いつの時代の話だとなるのだ。コルホーズソ連の集団農場)の話が出たかと思うと、ケネディ暗殺事件の話になる。「私」がおじさんに宇宙飛行という大事件を話したときの反応は、「そんなことは全部嘘っぱちだ」といい、「うちの田舎の男の話だがね」と前置きしてこう語る。「自分の畑に杭を打ち込んで、やおらみんなにこうのたまった━━ここが地球のまんなかだべ、とな。そう言われたって、調べようがないわな!」と。

 だいたいが、サンドロおじさんの口調はこんな感じだ。宇宙飛行に対抗する田舎男の話は、アイルランドのシェーマス・ヒーニーに出てくる「世界のへそ」の詩にそっくりだ。

 良くも悪くもマイペースなのだが、サンドロの視点は一見なにかのジョークのように見えて、半面で深い真実を宿しているようにも思える。例えば、街道を走る車両監視の仕事をしている「テンゴ」という男が国からピストルを預かっていると話したときのこと、いきなり「私」の上着のポケットのボールペンのキャップを指さしてこう言う。「(おまえだって)インクしか出ないが、そういう飛び道具を託されているんだ。それなのにびくついて、市評議会の技師を脅すこともできやしない、それじゃ駄目だ」と。

 いったい、なにが「駄目」なのか不明だが、ともかく、サンドロの話には飽きさせられない。面白いともいえるが、いったい何が面白いのかが不明な面白さで、こういう味わいは他の作家ではちょっと経験したことがない。

 この文体に慣れることはちょっとなさそうだ。絶えず予想を裏切られる。したがって、一気読みしたりすることがまず不可能に感じられる。この予測不可能な人物、サンドロの造形には類稀な文学的資質が必要だろうと思わせられる。

 しかし、読んでいて何とも愉快だ。絶えずあさっての方角から球が飛んでくる愉しさとでも言えばいいか。

 ところで、サンドロのことは「タマダ」と皆が呼ぶ。「みんなの宝であるこの偉大なタマダ」などのように。ユーラシアじゅうにこのタマダ(「宴席の主」)の伝統があるらしいが、なかでもこの伝統がもっとも称えられているのが南カフカーズ(コーカサス)のあたりだとか。さしずめ、イスカンデルのこのシリーズは「タマダ話」とでも呼べばよいか。


「ベルシャザルの饗宴」
 スターリンを扱った中篇。題名は旧約聖書の預言書ダニエル書5章に描かれたバビロニア王ベルシャツァルの大宴会から採ったものだろう。題材が題材だけに、初めは検閲で撥ねられたいわくつきの作品。

 歌舞団の一員としてスターリンの宴席でダンスを披露するサンドロ。花形ダンサーを上回る妙技を見せたところ、スターリンに「おい、この山賊め、おまえは何者だ?」と言われる。スターリンの「眼差しには、何か不穏な影がよぎ」る。

 角型の杯にスターリンがなみなみと注いだ一リットルもの葡萄酒を、サンドロが「流れるような動作で」飲み干すと、今度は「なあ山賊、おまえには何処かで会ったことがあるんじゃないか」と言われる。サンドロは、「なぜかわからぬが、耐え難い不安を覚えた」。

 ユーモアが影をひそめるこの作品は、のちに1990年代のイスカンデル作品に現れる「存在の不安」を少し想わせる。みずからの過去にぽっかり穴が開く、宙づりのような感覚だ。いま生きていることの意味の基盤が消失するような、例えばソール・ベローにも通じる現代性。


「老ハブグのラバの話」
 ラバが語り手という変わった中篇。名はアラプカ(黒助)という。サンドロの両親が飼うラバだ。このラバの視点で世の中の動物と人間のことが語られる。〔ラバはロバの雄と馬の雌との交雑種。〕

 「アブハジアの習慣では家人が家にいるときには台所の戸は一日中開け放っておく」ことになっている。主人ハブグは「台所の戸が閉じられているのが我慢ならない」。開いていれば、通りかかった人の渇きや空腹に応えるという合図であり、閉じていれば、「不意の客を恐れるけちん坊だという印になる」。似た習慣は世界各地に今でもあるだろう。

 こういう風に、このラバは主人の言葉や考えがもちろん分かるし、社会のことも分かる。例えば、「われわれ生き物にとって」コルホーズの畑と(コルホーズ未加入の)個人経営農家の土地とでは「どっちがやさしく、思いやりがあるのか」についてきちんと判断を下す。

 こう書くと、いかにも動物を表に出しただけの寓話と見えかねないが、そうではない。生き物には生き物なりの事情や理屈があることを、ちゃんと(というのも変な気がするが)踏まえている。好き嫌いも激しい。ラバは仔馬が大好きだ。一方、犬は意味もなく吠えたてるので腹が立つ。人間が乗る乗り物としては、「あらゆる点で私のほうが馬より快適である」と自負している。

 しかし、そうは言っても、ラバがある種の隠喩を含んでいる面があるのは否定しがたい。アブハジア男がロシア女とのあいだにもうけた息子について、ラバはこう思うのだ。「おまえだって子ラバなんだから。おまえはアブハジアの年寄りロバとロシアの若いメス馬の子なんだ。つまり、おまえも子ラバということだ」と。


略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」
 サンドロが恋をする。それも、よりによって、友人の結婚相手に。友人は「略奪結婚」という形式をとって結婚する。

 サンドロが、どうして友人の許嫁の娘に一目惚れしたか。その娘の名は何を表すのか。謎が多いが、作者はわざと謎めかして楽しんでいるようだ。

 恋におちた理由は一見はっきりしている。笑窪だ。笑窪の女はサンドロは初体験だったのだ。だが、それだけで?━━と読者は呆気にとられるが、どうやら、笑窪は作者の好みらしい。

 物語としては、何とかしてその娘を自分のものにしようと思うが、結婚の当日まで、サンドロが何も妙案を思いつかぬところに面白さがある。サンドロにしては珍しいことだ。いったい、サンドロはどんな手をつかうのか。


「おお、マラート!
 写真屋のマラートの話。恋の武勇伝を「私」に聞かせる。いつも話は「てなわけで……。女は随喜の涙をながしたわけさ……」と締めくくる。

 恋の相手は蛇使いや小人など、多彩だ。小人のときは、親戚連中から「あの一寸法師と縁を切れ」と申し渡される。その言葉の迫力についてこう書いてある。「アブハジア語の特徴は、ロシア語なら四語を必要とする動作が一言で言い表せてしまう点にあって、こうして翻訳するとその凄みがくすんでしまうのが残念だ。」(340頁)

 この話にはサンドロは出てこない。マラートはサンドロと同じく宴席を取り仕切るタマダではある。悪くないが、サンドロものと思っていた読者は肩すかしをくらう。


「大きな家の大いなる一日」
 1912年の盛夏。大きな家の庭先のリンゴの樹。そのまわりで起きる一日の出来事をえがく。

 樹の木陰に座るのが12歳のカーマ。甥のケマリチクの食事の世話をする。

 樹の根元に腰をおろすのがカーマの一番上の兄にあたるサンドロ。客に若い頃のおもしろい話をする。

 木陰の杭に雌鶏がつながれている。羽根の下にもぐり込んでいた十五羽の雛がまわりに群がる。

 庭のはずれのクルミの木にオオタカが降り立つ。姿が見えないが、木のまわりをツバメが「不安げな鳴き声を立てて旋回」するので、カーマはそう推測する。オオタカといえば明治神宮の森の生き物の頂点にあり、地上20mの樹上にいるからなかなか見えないことを思い出す。アブハジアでも高い木の上にいるのだろう。

 カーマの三人の兄と父親は畑でトウモロコシを取り入れている。母親は台所で昼食の準備をしている。

 13歳になる兄のナヴェイはダニエル・デフォエが書いた『ロビンソン・クルーソエ』という本(「昔はこの本も著者もそんなふうに呼ばれていた」)をロシア語で読みながら、何ページか読むごとに、おばあさんに内容をアブハジア語で伝えている。

 おばあさんはときどきロビンソンの支離滅裂な行動をあげつらう。ナヴェイが、ロビンソンが難破した船から、置き去りにされていた犬を救い出した話をすると、おばあさんは「犬はどうしちまったんだい?」とたずねる。その後の話のなかでロビンソンが一切犬のことにふれないからだ。ナヴェイが犬のことは書いてないと応えると、「ひょっとして、そいつ、犬を食っちまったんじゃないだろうね?」とおばあさんは奇妙な憶測を口にする。

 このような家族と家畜とまわりのものの一日が語られる。淡々としているが深い印象を残す。魂のノスタルジーという言葉があるとすれば、まさしくそのような物語だ。