阿部 夏丸『泣けない魚たち』(ブロンズ新社、1995)
「かいぼり」は「掻い掘り」のことで、水を汲み出して干し、中の魚を獲ること。換堀(かえぼり)ともいうらしい。道具もなにもいらない魚とりの方法。
これをやるには水をせきとめることが必要。そこで、悪ガキたちは南京袋を盗みに行く。それを土嚢にするのだ。ためらう子もいるのだが、遊びには泥棒がつきものと嘯く主犯格。
この描写が生き生きとしている。逃げ場をなくした魚たちは「まいまいと」泳ぐ。まいまいと、とはどんな語感なんだろう。ミズスマシ(アメンボ)のことをマイマイムシ(舞舞虫)ともいう。いずれにしても愉快な描写だ。
大きなコイやフナを取る者たちのなかで、一人ちいさな魚を取るゆうじ。みんなは雑魚(ざこ)と思っているが、ゆうじはちがうと指摘する。「雑魚っていう、魚がいないんだよ。雑魚にしても雑草にしても、どうでもいい魚や草ってことだろう。そんなの、人間の勝手で、魚や草には、関係のないことだよ」と。(有川浩の『植物図鑑』を想いだす。)
「泣けない魚たち」
さとるとこうすけが愛知県の矢作川で繰広げる冒険や魚釣りをえがく。少年のこころがいっぱいにひろがる。そのこころが向かう世界もいっしょに。ひみつもいっぱい。よくあそぶ。
こうすけのじいちゃんは川漁師。もう、川漁師の生きていける川はなく、消えゆく仕事だ。こうすけはじいちゃんにあこがれている。尊敬している。
魚は、泣けるか泣けないか。むずかしい問題だ。理科の先生はそれを大学で研究していたという。さとるたちの担任でゴジラとよばれている先生だ。魚には涙腺がないから涙はないってことになってるが、それで泣かないといえるのか。
海と川とを行ったり来たりできるアマゴという魚がいる。長良川のアマゴは海に下って大きくなって帰ってくるとサツキマスとよばれる。幻の魚だ。そのサツキマスが矢作川にいるという。こうすけはその情報をゴジラから伝えられ、サツキマスを釣る作戦をたてる。さとるももちろん協力する。
他に、満州帰りのナマズ屋、金さんをえがく「金さんの魚」。満州にしかいないはずの巨大な草魚を矢作川で見かけた拓ちゃんは、浦さんと協力して草魚を釣る作戦を立てる。
どの作品をよんでも、河川敷が無限のたのしみを秘めた遊び場である(あった)少年たちのこころがあふれている。日本の児童文学史に残る作品として坪田穣治賞や椋鳩十児童文学賞を受けている。何度よんでもおもしろい名作。単行本には作者による3頁のあとがきが附いている。これがまたいい。