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このベストセラーがなぜ読まれていないのか

ジャック・アタリ『21世紀の歴史』(作品社、2008)

ジャック・アタリのこの本(原著2006年刊)は21世紀の今後を予測するうえで貴重な洞察や提言に満ちている。それだけでなく、過去の歴史についても創見(ひとによっては偏見ととるだろう)があふれている。

かつて本書はベストセラーだった。今でもひょっとしたら平積みの書店があるかもしれない。エマニュエル・トッドの本と並んで、フランスの知性を代表する書と目されている。

にもかかわらず、あまり(正確に)読まれていない気配がある。アタリが格差肯定論者に見えることと、自由を何より尊重すると公言する主張との間に、矛盾が感じ取られている雰囲気がない。不思議だ。

創見をひろう。(以下、引用)

インターネットの登場は、あたかも新大陸を発見したのと同様の衝撃をもたらし、この新天地に移住して活躍する可能性からビジネスに無限の領域をもたらした。(120頁)

アメリカ経済の重心および人口の移動は、東北から西南に向かった。(121頁)

太平洋では国際貿易の半分が行われている。(125頁)

アメリカ産業の一部はインターネットの登場により危機に瀕している。データ化できるものは、次第にすべて無料で交換されるようになる。(129頁)

世界の人口がますます急増し、空腹にあえぐ人々が増えるなかで、世界の農業は停滞している。地球の住人が摂取できるカロリーは、1994年から2006年までの間に、3%しか増加していない。(131頁)

経済成長がこうした貧困を大いに助長している。というのは、ヨーロッパやアメリカの店舗に向けて非常に安い価格で輸出される財(衣服、オモチャ、スポーツ用品)は、アジアやラテンアメリカでももっとも貧しい国々で、労働者を徹底的に搾取することにより製造されているからである。(131頁)

こうしたひどい状況から逃れるために、人類の移動が加速している。2006年、特にアフリカでは、5人に1人以上が出生地以外の国の住人となっている。オーストラリアの住人の5分の1、アメリカの住人の12分の1、EUの住人の20分の1も、こうした定義に当てはまる住人である。(132頁)

キリスト暦で第3ミレニアムの初頭となる2000年初頭には、アラビア半島、アフリカ大陸、ニューヨーク、次にアフガニスタンイラクリビアにおいて、ソヴィエト連邦のやり方に非常に敵対的であったイスラム教の一部の人々は、資本主義とアメリカならびにその同盟国を敵視し始めた。2001年9月11日には、神学で鍛えられた武装勢力が、定住民の歴史的建造物(ニューヨークのツインタワービル)を取り壊すために、ノマドの乗り物(大型ジェット旅客機)を乗っ取った。(133頁)

経済的・政治的勢力をもつ11カ国が台頭している。これらの国を列挙する。日本、中国、インド、ロシア、インドネシア、韓国、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ブラジル、メキシコである。(中略)さらには、これらの国を追う、力強い経済成長をともなった〈20カ国〉が存在する。こうした「20カ国」のうち、将来的にも社会機構の欠如に苛まれるであろう国々は、アルゼンチン、イラン、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ベネズエラカザフスタン、トルコ、パキスタンサウジアラビアアルジェリア、モロッコ、ナイジェリア、エジプトである。こうした国々以外にも小国であるが重要な役割を担う国としてアイルランドノルウェー、ドバイ(アラブ首長国連合)、シンガポールイスラエルが挙げられる。(143頁)

必要な知識は、すでに7年ごとに倍増しているが、2030年には72日ごとに倍増する。(176頁)

市場の秩序が始まったときから、自由は人類の大きな目的であったが、自由とは、実際には時間の囚人にとって、気まぐれな幻想の表れにすぎないのではないかと思いいたる者も現れる。(177頁)

現在、インターネットはほとんどの場合、アメリカの植民地状態であり、そこでは英語が使われ、富の大部分は宗主国アメリカが吸い上げている。しかし、この第7番目のインターネット大陸は、いずれ自治権を獲得するであろう。(179頁)

歴史は、帝国の寿命がますます短くなっていることを我々に教えてくれる。東ローマ帝国は1058年間、オリエントにあった帝国もそれぞれ400年間、中国にあった帝国も300年未満、ペルシャ、モンゴル、ヨーロッパの帝国もせいぜい200年から300年間で寿命が尽きた。オランダ帝国は250年間、イギリス帝国は100年間、ソヴィエト帝国は70年間、日本、ドイツ、イタリアが帝国になろうとした期間はさらに短い。120年もの間、すでに支配的な帝国であるアメリカは、近年の帝国の平均寿命をすでに超えたが、まもなく世界を統治することをやめることになる。(186頁)

超帝国による法の否定やその超法規的存在という状況のなかで、衰弱する国家は、滅亡寸前、さらには乗っ取られようとしている状況である。そこで、二つの異なるカテゴリーに属する企業が発展してくる。すなわち、〈海賊企業〉と〈調和重視企業〉(entreprise relationelle) である。まず、国家が規制する手段をもたない悪行を繰り返す企業の勢力が増していく。(中略)次に、市場グローバル化の矛盾に対する反応として、非営利目的の企業、すなわち調和重視企業が、国家が満たすことができなくなったある種の役割を代行するようになる。例えば、途上国や先進国のNGO(非政府組織)や財団などは、すでにこうした役割を担っている。(中略)調和重視企業は、こうした企業の存在自体がそうであるように、「未来の第三波」、すなわち〈超民主主義〉を生み出す。(中略)超民主主義とは、地球規模の民主的な機関によって超帝国が均衡する状態を示す。(220-221頁)

現在、インターネットの調整・管理を担う ICANN は、自称国際機関であるが、実際はアメリカ政府の操り人形である。(231頁)

(引用おわり)

困るのは、これらの指摘が正しいことである(将来の予測については分からない)。にもかかわらず、その背後に隠れている(きちんと読めば隠されてはいないが)アタリの思想なり史観なりが、まったく表では議論されない。まるで建前の背後の本音についてはみんな了承済みとでも言わんばかりだ。

いちばんの問題は、日本語訳と校正(あるいは校正の不在)がこの本音を見えにくくしているのではないかということだ。この日本語訳は英訳よりは正確だけれども、あまりにも誤植が多いことで、まともな神経をもった人なら途中で読むのを投げ出すであろう。いろんな意味で重要な本だけに、残念でならない。

この文章が出版社の目にとまるとは思わないが、提言だけはしておく。本書が30年後に紙の本で読まれる可能性はまずない。本当にこの本が重要だと考えるなら、とりあえず電子書籍して、校正をきちんと重ねて、みっともない誤植を減らしてもらいたい。30年後に読んでもおそらく本書は価値を失わない。 
21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

 

 

無知は弱さになる | 医療保険制度の将来

 日本の医療費は38兆円。

 これが医療が「商品」になると100兆円になるという。巨大な市場だ。米国は参入しようとして虎視眈々と機会を狙っている。

 堤未香さんが自著『沈みゆく大国アメリカ』から次の箇所を朗読した(BS日テレ「久米書店」2016年6月5日再放送から)。

WHO が絶賛し、世界40か国が導入する日本の制度。時代の中、さまざまな変化と共に個々の問題は出ているが、時の厚生労働省や医師会、心ある人々によって守られ、なんとか解体されずに残ってきたそのコンセプトは、私たちの国日本が持つ数少ない宝ものの一つなのだ。無知は弱さになる。そう私に教えてくれた、ハーレム在住のドン医師。「今の医療保険制度を、空気のように当たり前にあるものだと思わないことです。制度というものは、一度奪われると取り戻すのは本当に大変ですから。奪われないためには、自分の国の医療制度くらいは最低限知っておくことです。アメリカ医療にもメリットはありますよ。その実態をみると、どんな国の人でも、自分たちの医療制度に感謝することができるんです」(201-202頁)

 堤未香さんは9・11のとき、隣のビルで仕事をしていた。

 お父さまはばばこういち。夫君は川田龍平

 堤さんは日本人ひとりひとりが意識すれば、この医療保険制度は奪われないという。意識すれば。

 番組での堤さんの話では、現行で医師への還付の率が8割。これでも持ち出しがある(赤字)。ところが、さらに変更されて、医師の取り分が6-7割になるという。これでは医師がいなくなると。

 

沈みゆく大国アメリカ (集英社新書)

沈みゆく大国アメリカ (集英社新書)

 

 

大変参考になる本です。第2弾も出ています。

起源神話の脱構築━━もうひとつのプラハを幻視する

ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』

 

チェコの作家ミハル・アイヴァスが1993年に書き2005年に大幅に改訂した小説。mythopoeia という言葉があるが、まさにそのような、神話的な詩とも詩的神話ともいえる作品。1949年10月30日プラハ生まれだが父親はクリミア出身のカライム人、即ちハザールの末裔だ。アイヴァスは同じ10月30日生まれ(1885年)の詩人エズラ・パウンドにも似て、基本的には詩人の資質を有する。アイヴァスは詩集『ホテル・インターコンチネンタルの殺人』(1989年)でデビューした。

主人公の「私」がある日、古書店で目にした謎の文字で書かれた書物をきっかけとして、プラハの裏に存在するもうひとつのプラハをめぐる冒険が綴られる。危険な目に何度も会うが、それでも「私」はもうひとつの街へ向かう。なぜだろう。

最大の動機はみずからの起源神話の中心地にたどり着きたいという願望だ。そのヴェクトルが故郷への「帰還」の問題として哲学的・神話学的・詩的に展開される。もうひとつの街の住人たちと対話する中で、その「異界」への扉が日常生活のすぐそばに開いていることが判ってくる。たとえば、カフェ・スラヴィアの地下トイレのドアの外はもう異界なのだ。

プラハもロンドンもふしぎにトイレは地下だ。どうしてなのだろう。下水道の関係かもしれないが、「地下トイレに連なる階段」が異界への入り口というのは、今度ヨーロッパへ行った時には、意識してしまいそうだ。

起源神話を肯定するのでなく、それを解体し、別のものへと組立て直す。「私」に対して給仕の娘、実はもうひとつの街の住人アルヴェイラは「帰還は不道徳だ」と断言する。帰還したと思っても、その「故郷」には怪物がいると。実際、小説中にサメやエイや虎など獰猛な動物が現れる。それだけでなく、「私」はヘリコプターにも追いかけられる。

空間と時間の感覚が、現代のプラハから薄い膜ひとつ隔てたところで、完全に別のものになってしまう。最初は「私」は現実のプラハにしょっちゅう戻ってくるが、そのうちにあちらのプラハでの滞在時間が長くなってくると、読者の感覚もかなり変容する感じを味わう。

翻訳は悪くないが、古代ギリシアのノモス(法)のことが分っていないのと、「司祭」の語を頻繁に使うのには興ざめだ。後者はせめて「祭司」とすべきだ。翻訳に調子を狂わされることがなければ、おそらく満点の作品。

 

 

もうひとつの街

もうひとつの街

 

 

絵解きは謎解きに通じる━━漢字の絵解きの面白さ

牧野恭仁雄『みんなで読み解く漢字のなりたち2 人の姿からうまれた漢字 みんなで読み解く漢字のなりたちシリーズ

 

 ふだん使う漢字は300の絵の組合せから成る。そういう観点から漢字を解き明かす「絵解き」はまだ新しい分野だという。

 漢字の成立ちは今の楷書だけ眺めてもわからないし、楷書から理屈を組立てても間違える。

 いい例が「人」という字だ。俗解で人と人とが支えあう字などという。実はもとは一人の絵なのだ。

 つまり、今の楷書の形の漢字だけを見ていては絵解きができないことになる。

 絵に近い、古い字の形を見なければならない。でも、見ても、絵として解けるとはかぎらない。そこに面白さも、またある。まだ確立した分野ではないのだ。そう聞くと、じゃ、自分もひとつ、やってみるかという気がおきてくる。

 この「みんなで読み解く漢字のなりたち」はシリーズになっているが、本書はその第2巻で、「人の姿からうまれた漢字」をあつかう。

 本書の「絵解き」の基本原理が巻末に説明してある。なかなか面白い。

 「主」はもとはかがり火。照明スタンドだ。そこから、「動かない」「まっすぐ」の意味が出てくる。

 左に馬を配すると「駐」の字。もとは「馬をとめる」の意味。いまはもっぱら車をとめることになる。

 にんべんがつくと「住」の字。「人が動かない」意味になる。

 さんずいなら「注」の字。「みずをまっすぐ」という意味だ。

 ごんべんがつくと「註」の字。「〈言う〉が動かない」ことから「書きとめる」意になる。

 きへんなら「柱」の字。「木がまっすぐ」「動かない」という意味だ。

 こうやって見てゆくと、「絵解き」はまことに謎解きに通じることがわかる。本書でも、定説がないケースは、「と思われる」と書いてある(亢、王、皇など)。まだまだ謎が多いのだ。

 意外だったのが「話」の字だ。「内容のある言葉」という意味だという。右側は実は「深く内容のあること」を表す字だ。舌とは違うのだ。見かけは似ているけれど。

 意外といえば「鄰」の字もそうだ。「接しているたくさんの地域」を表す。本来はこの字なのだ。左右をひっくり返した「隣」はおかしな字なのだという。

 「鬼」の字がおもしろい。古い字はやせた幽霊の絵だ。そこから、「あたま」「かたまり」「つかみにくい」を表す。

 「云」という雲を表す字と組合わせると「魂」の字になる。「つかみようがない(精神)」の意味だ。

 「しびれる」ことを表す「麻」と合わせると「魔」の字になる。「幽霊みたいに実体がわからないもの」の意だ。

 もう一つ。「見えにくい」ことを表す「未」と組合わせると「魅」の字になる。「つかみにくく、神秘的である」ことを意味する。

 本書のようなアプローチを、別の角度から漢字の成立ちを考えている笹原宏之のようなやり方と比べてみても、面白いだろう。

 

 

 

読んでいる間、妙にドキドキする小説

川上弘美センセイの鞄

 

女性作家の作品で女性が「用を足す」場面が印象に残る小説はめずらしい。評者が知る限りでもあと一つしかない(ジェニファ・イーガン)。

この「用足し」が小説の中の重要な場面に現れる。たいがい、主人公の女性とその先生とが、微妙に交叉しそうで交叉しない場面で、妙なタイミングで主人公が便所に行く。その結果、ふたりの関係が進展するようにみえるときもあれば、表面上はあまり関係ないように見えることもある。どうにも不思議だ。

この女性は30代後半の独身女性。先生はかつて古文を習った恩師で高齢の独身男性(60代後半か70代)。このふたりが偶然、駅前の飲み屋で出会ったところから交際が始まる。

男女がぎこちなくデートするときに用足しに中座するというのは、その中座する人が、心中、ある種の緊張をかかえていることを表すのか、それとも単なる生理現象か。

作者の描き方を見ていると、そのへんが微妙で、読んでいるほうも、その必要はないのに、なんだかどきどきしてくる。

このふたりの関係は、だいたいにおいて雲をつかむような感じなのだが、実体がないかというと、そうでもなく、その手ごたえが確かに感じ取れるような文体になっている。最後のほうに、ふたりが肉体をともなわずに出会う夢幻的な場面が現れるが、それは明らかにその場の空気をまぼろしのように描こうとしている。ふつうだと、写実的な小説にそんなシーンが現れてはおかしいのだが、本小説の場合、それほどおかしい感じがしない。あくまで自然な流れに感じられるのだ。

英訳されて、米国と英国で別々の題で出版されている。これがなかなかの評判のようだ。翻訳されても川上弘美の文体が、あるていど、伝わっているということなのだろう。

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

1904年6月16日ダブリンの一日

ジョイス、バラエティアートワークス『ユリシーズ(まんがで読破)』

 

 世に言う「ブルームズデー」をえがくジョイスの小説をまんが化したもの。382ページあるけれども、おもしろいのでまったく退屈しない。

 アイルランド・ダブリンの1904年6月16日の一日をえがく。世界ではロシアが戦争をしているころで、おかげでアイルランドの景気はよい。

 この一日にまるで人の一生があり、すべての一日に一生と同じ価値があると感じ、その一日のできごと、ダブリンの風景、そこに暮らす人々を文章で微細に描写する、そしてそれらをユリシーズオデュッセウス)の冒険神話に対応させることを、文学青年スティーヴンは思いつく。

 主人公はユダヤ人の広告取りレオポルド・ブルーム。妻のソプラノ歌手マリアン・ブルーム(愛称モリー)と興行師ヒュー・ボイランとの浮気を疑っている。

 もう一人の主人公が私立学校の教師で文学を志すスティーヴン・デダラス(ディーダラス)。ジョイスがモデルともいわれる。彼が悪友の医学生マラカイ・マリガンらと交わす会話が深遠でおもしろい。

 小説はスティーヴンとマラカイが暮らすサンディ・コーヴのマーテロ塔の朝から始まり、ブルーム家の夜で終わる。その間のたった一日の何気ない日常の風景に、神話に匹敵する物語が隠されていることをジョイスの類稀な洞察力がえがきだす。

 第一部「テレマコスは苦悩する」から第二部「オデュッセウスは流浪する」の半ばくらいまでは、小説のまんが化として新鮮な驚きの連続だ。第二部の半ばから第三部にかけてはやや駆け足の感がある。最後の章「ペネロペー」の有名なモリーの独白は殆どまんがに描かれていない。もっとも、実験性の強いこの部分はまんが化することがおそらく不可能だと思われる。

 

ユリシーズ ─まんがで読破─

ユリシーズ ─まんがで読破─