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稀有な散文に出会えたしあわせ


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Claire Keegan, Foster (Faber, 2010)



 現存するアイルランドの作家ではまちがいなく最高の一人に出会えた幸運に興奮を抑えきれない。ダブリンのある書店でこれを薦められなかったら、おそらく一生知らないままだったろう。本当にこの本が読めてうれしい。

 ちなみに、その店は螺旋階段(Winding Stairs)といい、階段を上ったところに同名の居心地のいいレストランがある。リフィ川を眺めながらおいしい料理やデザートが食べられ、しかも食事をした人は階下の本屋が一割引になる。

 これは88ページの短篇小説ながら、英国のフェーバー社から単行本として2010年に刊行された。それだけでもすごい。元はニューヨーカーに載ったものを改訂拡充した。

 本には単に 'a story' と書いてある。story に与えられる世界最大の賞 Davy Byrnes Award (2009)を受けた。それだけではなく、出す本、出す本、ことごとく賞を受けているといってもいいくらい。稀代の目利きのカイバードが「すでに大作家の片鱗あり」と書くほどである。

 舞台はアイリシュ海に面するアイルランドはウェクスフォード県。ひとりの女の子が知合いに預けられるところから話は始まる。もちろん、車で連れてこられるのだが、その道中の描写にまず惹きつけられる。

 自動車はこの短篇で重要な役割を果たすけれど、作中で大きな「ギア・チェンジ」が二回ある。といっても、車のことでなく、文体上の変化だ。文体と書いたけれど、正確には言語の変化である。

 最初はアイルランド英語(Hiberno English)で始まるのに対し、預けられた先ではふつうの英語に変わる。これくらいで本当は驚いてはいけなくて、20世紀初頭には、加えてシェークスピア時代の英語もダブリンでは使われていた。

 実家に帰ってくるときに再度ギアが代わり、アイルランド英語にもどる。このあたりの機微が、登場人物たちの微妙な心の動きを映し出す鏡になっている。

 さらに、作中で一回だけだが、このうえなく美しい抒情的な散文が現れるところがある。預けられた先の父親と海辺へ降りていく場面で、息を呑むほどの文章である。

 アイルランドでは不思議なことや大したことが起こっても、それを平気でやり過ごし、言挙げしないのが暗黙の流儀であるが、本作ではそれがもっとも重大な事件の際に貫かれる。少女に生命の危機が訪れるのだが、そのことについて実家に戻ったときにも本人の意思で語らないのだ。こんな小さな子がそんなプロトコルを身につけているのかと驚くほかない。

 最後は恋愛小説の成就の瞬間のように感動的だけど、これは恋愛小説ではない。心の深くにこんこんと湧き出る泉の話である。


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