飛浩隆『自生の夢』
飛浩隆「La Poésie sauvage」(「現代詩手帖」2015年5月号)が本作「自生の夢」(2009)の延長として生まれた。「La Poésie sauvage」に感じ取れたのと同質の詩情(ポエジー)を期待したが本作にそれはない。むしろ、得体の知れぬ巨悪のどす黒さに視界まで濁る。
おそらく殆どの読者は(SFに慣れている読者でも)視界を濁らされると思う。だから、解説の大森望も事実上何も言っていない。言っているのはただ〈J・G・バラード的な角度から情報技術にアプローチし、Google時代のテクノロジカル・ランドスケープを審美的に描き出す〉ということだけ。だがその形容が当てはまるのはむしろ「La Poésie sauvage」の方だろう。これを読んでそんなランドスケープが描ける人がいるなら、ぜひその風景観を聞いてみたい。
約百枚の短編。そのプロットは、七十三人を死に追いやった殺人者を、ある怪物を滅ぼすために召還するというもの。前者はよく分かる。死に追いやろうとする者としゃべるだけでその者を死に至らしめる異能者である。だが後者が分からない。いや、「La Poésie sauvage」の読者には分かるのだが本作だけではほぼ分からぬ。そんなのはありだろうか。6年後に生まれる作品で初めて分かるようなものなど。何か正体の分からぬ塊をどろっと流し込まれた印象だけが残る作品など。あるいは作者は読者の中で6年という歳月が発酵するのを待って次の作品を送り出したのか。
具体的にはインタビューアが殺人者・間宮潤堂と対話する。その対話それ自体が、真の敵・〈忌字禍(イマジカ)〉との闘争そのものである。そのインタビューの実体はコンピュータ上の膨大な計算である。
本作に綴られるのは〈多くの人間を死に追いやった稀代の殺人者間宮潤堂が、いかにして死の国から還って来、彼(か)の怪獣を討ち滅ぼしたかをめぐる、波乱万丈のお話しであるが、表面にあるのは静かな対話だけだ〉。これが静かか! と思うと〈どんなに騒々しい小説でもそれが書かれていくのは静かでフラットなディスプレイ、もしくは紙であるのと同じである〉と書いてある。
何かが始まる予感がするが、冒頭部分に「行け、これにて去れ」という言葉がある。つまり、読者に読まずに回れ右せよと告げているのだ。まあ、正直、それに従った方がよい気もする。書くということ、そしてそれを読むということ、これそのものがこの世界と深く関わっており、それは覗かぬ方がよいのかもしれない。
だけど、評者は最後まで読んだ。そして、「La Poésie sauvage」の意味をより深く理解した。それゆえ、逆説的になるが、「La Poésie sauvage」の世界がいかに生まれたかに関心ある人なら、あるいは読む値打ちがあるかもしれない。2010年星雲賞(日本のSF賞として最も長い歴史を誇るSF賞)日本短編部門受賞作。
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