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全人類に向けられた普遍的メッセージとしてイスラームに向き合う


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中田考イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』

 

目次

入門書ではない

 イスラームに関する入門書とはいえない。イスラームを異文化として理解するなどという態度(たとえばサイードのオリエンタリズム)は初めから間違いであ るとされている。では、いったいどんな読者が想定されるのか。それが判然とせぬまま読者は、日本人イスラーム法学者たる著者のラディカルな議論のただ中 に、放りこまれる。だから、決して読みやすい本でもない。

 むしろ、本書は、〈イスラームと日本文化の双方を相対化した上で、日本語によって「イスラームのロジック」を再構成する道を模索する〉書である。それに よって、世界十五億の民を動かす「論理」を理解することを目ざす。ここでイスラームじしんの相対化が含まれていることが、本書のラディカルな所以である。

 「日本語によって」も見逃せないポイントだ。イスラームの宗教儀礼は原則としてアラビア語以外使えないからだ。ローマカトリクでも1960年代まではミ サでラテン語しか使えなかった。著者はその後、『日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解』(2014)という画期的なコーラン翻訳をしている。

 はたして本書は日本人読者に理解を求めているのか。そもそも、コミュニケーションが成立すると考えているのか。それについて確信が持てぬまま読み終えた読者は、つぎにどこに向かえばよいか。

普遍性

 たった一つ、拠りどころがあるとすれば、普遍性である。イスラームの普遍性から目をそらさぬ限り、人間であれば、いつかは理解に達することだろう。

 ひとことだけ。カトリシズムはそもそも普遍性を意味する。一方で、イスラームは帰依を意味する。

現代から過去へ

 著者は「イスラームの歴史」を理解するために、現代から話を始める。過去から現代へと進む通常の歴史書とは逆の方向である。その理由がイスラーム神学でいう「時間原子論」 に基づく。時間を連続のものとみなさず、不連続かつ不可分の点の系列とみなし、世界が「一瞬ごとに無から創造されそのたびに消滅し、それを繰り返す」と考 える。そこから出発し、解釈学的な議論をへて、現代から過去へ進むのが、過去を理解する唯一の道であることが説かれる。

 このあたりの議論は、理解可能だけれども、この種の神学的時間論や解釈学に不慣れな人には、とても迂遠で韜晦なものと映るかもしれない。しかし、これは ハッタリでもなんでもなく、きわめてまっとうな議論である。この時間論のような例がすんなり理解できれば、普遍の学としてのイスラームの理解に一歩近づけ る。

 しかし、相当むずかしいこともまた事実である。にもかかわらず、この書で著者の核にある熱気の根源に触れれば、その彼方に、〈日本語/日本文化の中ではいまだ「語ることができない」イスラームの存在〉が見えてくる。

 池澤夏樹折口信夫について使ったことばを引けば「文章は難解でしばしば矛盾しており、読むというよりは必死の解読に近く、進んだつもりでいても実は出発点に戻っていたりする」ような文章だ。根源的な難しさがある。

二〇世紀

 著者は〈二〇世紀は唯物論の世紀として幕を開け、宗教復興によって幕を閉じた〉と述べる。この見解は、たとえば、ジル・ケペルの『宗教の復讐』の読者にとってはなんら奇異なものでない。この文脈に立つと、〈イスラーム世界では、ソ連の崩壊はイスラームに対する無神論の敗北を意味〉するという著者の指摘がよく分かる。

 だから、著者が〈宗教は消滅しつつある、という一九世紀的幻想にいまなお支配され、「神の死」が無邪気に語られる日本の「現代思想」の不毛性を露呈させ る場が、イスラーム世界なのである〉と述べるとき、特に変わったことを語っているつもりはなく、著者にとっては常識に属する認識である。

イスラエル

 著者は〈イスラエルとは、イスラーム世界に押しつけられた、西欧の内部矛盾〉であると述べる。イスラエルを〈ヨーロッパ人がパレスチナにつくった植民地〉と見なすところから、この認識が導かれる。

多神教 vs. 一神教

 著者は〈根源的な問題として「仏教、神道多神教」 vs. 「キリスト教イスラーム一神教」という二項対立構図がそもそも成立するのか、ということ自体が問い直されなければならない〉と述べる。

 問い直しの契機となる例がいろいろ挙げられる。たとえば、世界最大のムスリム人口を擁するインドネシア憲法で定義する一神教の範疇には〈イスラームカトリックプロテスタントと並んで、仏教とヒンドゥー教が含まれ〉る。

 また、唯一神道(吉田神道)の継承者でムスリムでもある故・澤田沙葉(サファー)は唯一神道を一神教とみなした。

 浄土真宗とイスラームの比較研究を行った狐野利久は〈日本人のイスラームの宗教に対する理解は、西洋を媒介とした理解が多いせいか、筆者自身も誤解して いたところがかなりあった。ところが、『コーラン』を読んでみて、意外にも親鸞の思想に類似しているところがあって驚いている〉と述べる。

イスラームとヨーロッパ

 著者は〈ヨーロッパとイスラーム世界を同一の文明と呼ぶ〉。

 地理的なヨーロッパの定義に含まれる地中海沿岸諸国にムスリムの国々があること。

 中東史家三木亘によれば〈中世のヨーロッパはアラブ・イスラーム教徒主導下の一神教諸派複合文明と言える「西欧」の普遍文明の、むしろ周辺の一要素〉であること。

 西欧思想の二大源流といわれるヘブライズム(ユダヤ思想)とヘレニズム(ギリシア思想)は〈イスラーム文明の源流でもある〉こと。

十字軍パラダイム

 聖地回復をめざす11-13世紀の十字軍とスペイン再征服を完了した15世紀のレコンキスタにつき、著者は現在もなお、〈イスラームを敵対視するヨーロッパのイスラーム認識の基調低音〉となっていると述べる。

 1099年にエルサレムを攻略した十字軍が四万人の非戦闘員のムスリムユダヤ教徒を殺戮したことについては、〈律法を持たない「無法」なキリスト教徒の十字軍の野蛮さは、最後の普遍宗教としてのイスラームが、異教徒を庇護民として受け入れる他宗教との共存のシステム、非戦闘員の殺害の禁止などを法制化しており、また概して実際にも守られていたのと好対照をなしていた〉と述べる。

 ここまでが第1-2章の内容であり、以下、第3章「アッラーフ」、第4章「預言者ムハンマド」、第5章「ウンマの歴史」とつづく。「アッラーフ」(Allāhu)とは「アラー」「アッラー」のこと。ウンマイスラーム共同体のこと。