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SF詩特集号で飛浩隆「La Poésie sauvage」を読む+高塚謙太郎の考察+広瀬大志・伊藤浩子「女人結界」


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現代詩手帖2015年 05 月号(思潮社、2015)



現代詩の雑誌
 「現代詩手帖」2015年5月号がSF詩の特集を組んだ。SFというと小説だけど、SF詩というのがSFの一ジャンルとして成立するくらい、歴史も拡がりもある。それも、一見して詩に見えるのだけでなく、よく見ると散文詩といってもいいものもある。

 そんなこんなで、飛浩隆の新作が本号に載ったので大騒ぎになった。飛は新作が待ち望まれているSF作家だが、その作品がSFマガジンでなく現代詩手帖に載ったから、みんな驚いたのだ。


読んでみると
 実際にその作品「La Poésie sauvage」を読んでみて、納得した。ああ、これはSF詩の特集号に載るにふさわしい。SF詩とはなにか、【詩とはなにか】を考えさせる恰好の作品だ。

 詩とはなにかだって? そんなことがSFで語れるのかと思った人は一度読んで自分で判断してみてほしい。


ノスタルジア
 未来の電子的空間における詩生成という尖端的問題を扱いながら、どこか、なつかしい。飛の作品によくあることなのだが、とてつもなくSF的空間にありながら、そして、そんな世界は初めて触れるものであるはずなのに、そこに郷愁をおぼえるのだ。

 どうしてだろう。不思議だ。おそらく、ここには二つの要素がある。ひとつは、未来から現代を回顧するヴェクトルだ。現代のわれわれが慣れ親しんだものが未来に失われるのではないかという言葉にできない不安は多かれ少なかれある。そこを衝く。

 もうひとつは、作家のなかでゆっくり発酵させてから書いていると想像されることだ。創作した世界で充分に長い時間をすごし、自分がそこの住人であると実感できるまで筆をとらないのだろう。だから、架空世界であってもリアルだし、ノスタルジックだ。〔補足。飛にあっては、「なつかしい」には振幅がある。プラスからマイナスまで。〕

 そうやって織り上げた作品を、飛はたぐいまれな日本語でつづる。それを読むことじたいが悦びだ。新作が待望されるには理由があるのである。

 なお、タイトルはフランス語で「野生の詩」の意。本作では「野良の詩」という。厖大な計算資源をつかって生成される、人工知能による詩作。構造主義人類学の古典『野生の思考』 La Pensée sauvage をもじったのだろう。


 SFと詩の関係については、本号の巻頭鼎談が参考になる。主として詩人二人と翻訳家(「ランズケープ」を連呼するのは勘弁してほしい)による鼎談。いろいろな作品を挙げながら、SFとはなにか、詩的抒情とはなにか等について熱い議論を繰り広げる。


 もうひとつ、高塚謙太郎の考察「言葉というSF」は刺激に富む。「意識は言葉である」と宣言し、「単なる伝達以上の何かを含み持たせるテクストはすべてSFである」とまで言い切る。その例に持ち出すのが、神林長平の『戦闘妖精・雪風』シリーズと貞久秀紀の詩、さらに新古今の歌なのだ。しびれる。


 ふたりの詩人、広瀬大志と伊藤浩子による「女人結界」は冒頭に目次があり、四章立てらしいのだが、本文は少なくとも十六に細かく分かれ、どれがどの章なのかはよく分からない。

 しかし、章立てはともかく、文体が少なくとも四種類以上あり、読んでいるうちに冒頭の目次のことなど読者は念頭になくなるだろう。評者が分かる範囲で、文体は、現代仮名遣い文語文、現代仮名遣い口語文、歴史的仮名遣い文語文、現代仮名遣い文語文(書き手がおそらくかなり古い時代の人間で平仮名が多い)、現代詩(SF的)、漢文(「八十八佛大懺悔文」に近いお経)などがある。

 ともかく、日本語があまりに正確なので安心して読める。しかし、物語は時空を超えた、あるいは物質界と霊界などの区別を超えた、とても不思議なもので、言語の正確さ美しさすらも読んでいるうちに忘れてしまう。SFといわれればSFかもしれない。