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少年少女にこそ、まだ希望がある


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梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫、2015)



 もとは理論社から2011年に(中学・一般向けの青春小説として)刊行されたこの本が、2015年に岩波現代文庫から出たことの意味を考えている。第二次世界大戦後の諸問題について、日本人がどう思考し、解決を模索したか、その軌跡をよく表す文芸的達成を厳選した叢書に入ったことの意味を。

 梨木の作品を「慎重に」読んできた澤地久枝の解説の言葉を借りれば、この本は梨木が「はじめて政治の問題にふれ」た書物である。そこに感じられる「つよい意志」は、1937年に吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を、「挙国一致へ一色になってゆく」世相のなかで勇気をもって出版した新潮社の意気にも通ずる。その先輩たちは「少年少女にこそ、まだ希望がある」と考えたのだ。

 現代の少年少女たちにこの本をぜひ手渡したいと考える人びとは(評者もそのひとりだが)、まだ希望があると信じている。だけど、希望の光をともすためにはまず現代の少年少女たちが置かれた状況をよく見なければならない。そのうえで、解決策を模索する。そのために、現代の思想はもとより、過去の人びとがどう考えてきたかも、参考にできるものは参考にする。

 つまり、現在の世界、そこに置かれた次代の人びと、少年少女が未来に向かってどう生きるかを考える手がかりを、現在および過去から探るということになる。だから、梨木の本としては珍しく巻末に参考文献リストが載っている。そこにはサバイバル関係の本(生態やボーイスカウトナチュラリストの本など)にまじって(良心的)兵役拒否の本がならぶ。澤地久枝が政治性の主題を感じたのは、そのあたりの徴兵制をめぐる問題だ。

 現代の少年少女をよく見るとはどういうことか。それは、少年少女にだって陰影があるということだろう。それを象徴的に表すのが岩波現代文庫版で使われた表紙の絵だ。木内達朗の油彩画である。宮沢賢治の『氷河ねずみの毛皮』の絵本(冨山房1993年刊)に収められた青年の絵だ。陰翳を描かせれば当代きっての名手の絵を用いたのは、内面世界に含まれる陰影を示唆するためだろう。

 実際、本書の中にそれを想わせる場面が出てくる。焚き火を囲んで、みんなが話し合っている場面だ。軍隊生活のことを語り始めるときのオーストラリア人マークの描写だ。

マークの顔は焚火の炎で、より一層陰影が深く見えた。(247ページ)


 この描写が単なる光の具合を表すものでないことは、その後、彼の親友に起きた悲劇を知れば分かる。

 つまり、少年や青年が内に陰影をかかえるということは、それを生み出すだけの外的事実があるからで、それも含めてよく考える責任が大人にはある。大人もそうであるし、少年少女もみずから考える必要がある。みんなできちんと考えることこそ、この本が私たちに課題として問いかけていることだ。

 物語は14歳の少年「コペル君」(コペルニクスにちなむ)と友人のユージンとを軸として進む。四月末の連休初日の一日の出来事を語る。この日にいろいろな事件が起きること、それを通して彼らの友人や知人や親戚が、さまざまに思索をめぐらすこと、それにはおそらく意味があるのだろう。もちろん、その日、4月29日は、「みどりの日」「昭和の日」と改称されたけれど、もとは天皇誕生日だった。

 昭和12年、盧溝橋事件の1ヵ月後に刊行された『君たちはどう生きるか』の問題意識は、平成の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』によって、あらたな問いかけを生んだ。何度も読返すに値する本だ。特に、人間だけでなく(人間はもちろん考察の中心ではあるけれど)、周りの生きとし生けるもの、家族の一員である犬や鳥などの生き物や、土の下の土壌生物、野山に生える植物、それらすべてのものに思いを致すきっかけになる本だ。