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1904年6月16日ダブリンの一日

ジョイス、バラエティアートワークス『ユリシーズ(まんがで読破)』

 

 世に言う「ブルームズデー」をえがくジョイスの小説をまんが化したもの。382ページあるけれども、おもしろいのでまったく退屈しない。

 アイルランド・ダブリンの1904年6月16日の一日をえがく。世界ではロシアが戦争をしているころで、おかげでアイルランドの景気はよい。

 この一日にまるで人の一生があり、すべての一日に一生と同じ価値があると感じ、その一日のできごと、ダブリンの風景、そこに暮らす人々を文章で微細に描写する、そしてそれらをユリシーズオデュッセウス)の冒険神話に対応させることを、文学青年スティーヴンは思いつく。

 主人公はユダヤ人の広告取りレオポルド・ブルーム。妻のソプラノ歌手マリアン・ブルーム(愛称モリー)と興行師ヒュー・ボイランとの浮気を疑っている。

 もう一人の主人公が私立学校の教師で文学を志すスティーヴン・デダラス(ディーダラス)。ジョイスがモデルともいわれる。彼が悪友の医学生マラカイ・マリガンらと交わす会話が深遠でおもしろい。

 小説はスティーヴンとマラカイが暮らすサンディ・コーヴのマーテロ塔の朝から始まり、ブルーム家の夜で終わる。その間のたった一日の何気ない日常の風景に、神話に匹敵する物語が隠されていることをジョイスの類稀な洞察力がえがきだす。

 第一部「テレマコスは苦悩する」から第二部「オデュッセウスは流浪する」の半ばくらいまでは、小説のまんが化として新鮮な驚きの連続だ。第二部の半ばから第三部にかけてはやや駆け足の感がある。最後の章「ペネロペー」の有名なモリーの独白は殆どまんがに描かれていない。もっとも、実験性の強いこの部分はまんが化することがおそらく不可能だと思われる。

 

ユリシーズ ─まんがで読破─

ユリシーズ ─まんがで読破─

 

 

三ツ鐘署が舞台の読ませる短編ミステリ集

横山秀夫『深追い』

 

 横山秀夫は短編でも抜群のストーリーテラーだ。

 例えば、冒頭の表題作。「深追い」とは刑事のある種の習性を示唆する何とも地味なタイトルで、正直あまり期待せずに読み始める。ところが、物語が進むにつれて「深追い」の真の意味がわかってきて驚かされ、最後は唸らされる。ポケベルというほぼ絶滅した通信機器がこの話の謎に大きく関係するので、知らない人は現代史の豆知識として予め調べておいたほうが絶対に楽しめる。ちなみに、国語辞書で「ポケットベル」を引くと、呼び出し専用の小型受信機などと説明している。

 次の「引き継ぎ」は泥棒刑事たちの検挙競争の話だ。盗っ人を捕まえるのを専門にしている刑事たちが検挙の数を競い合うという、警察関係者以外はだれも興奮しないような物語に見え、やや興醒めする。ところが、大物泥棒をとうとう捕まえた、その場面で思わぬ転換が起きる。隠された真の物語がそこから始まるのだ。ふつうは犯人逮捕がクライマックスなのに、この展開には驚く。

 というふうに、一見するとあまり期待が持てないような書き出しから一転して警察小説の醍醐味へと、短編のスペースの中で見事に持ってゆく。その技量に脱帽させられる。

 全部で七編収められている。中に事件らしい事件も起こらない一風変わった短編がある。最後の「人ごと」だ。三ツ鐘署の会計課に「草花博士」とあだ名される西脇課長がいる。警察官でなく一般職員だ。本務とは違うだろうが草花に関わることで相談を持ち込まれたりする。轢き逃げされた男の身元が割れず、ズボンの折り返しの中から見つかった種の鑑定を頼まれるなど。

 

深追い (新潮文庫)

深追い (新潮文庫)

 

 

 会計課の遺失物係に届いた小銭入れに花屋の会員証があった。他には小銭が六百二十七円。西脇は知っている店なので自分が落とし主を調査することにする。ところが、花屋で聞いた会員証の主はその住所にいなかった。話は意外な展開をし、花をやる人間ならではの機微が人情にも通じる印象的な作品だ。

 

第六回創元SF短編賞(2015)受賞作

宮澤伊織『神々の歩法

 

 うーん。これが受賞作かというのが第一印象。

 ニーナの運命が気になるというのが第二印象。

 英語の発音がおかし過ぎて唖然というのが第三印象。

 そのほか、作品ではないが審査員の短編観に大丈夫かと思った。これが判った以上、今後この人たちが推す短編は短編と思わないことにする。結局、この人たちは長編の世界に住む人たちなんだ。

 結論。この審査員にしてこの受賞作あり。考えてみるとごく自然な成り行きではあった。(もっとも、事情はもっと単純で、審査員の日下三蔵が言うとおり、今回は応募作に〈突出して個性的な作品が見当たらなかった〉ということなのだろう。)

 物語を審査員の大森望が〈米国の戦争サイボーグ部隊が、壊滅した北京の廃墟に派遣され、ユーラシア大陸に破壊をもたらしている神のごとき超人に戦いを挑む〉SFアクションとまとめている。大森は戦闘のディテールを〈さすがにプロの腕前〉と褒めるが評者にはこの戦闘場面が一番つまらなかった。戦闘が進んでいく緊迫感や得体の知れぬ恐怖などがなく、数学的興奮(?)が味わえなかった。この〈神のごとき超人〉は〈高次幾何存在〉であり、次元の差や虚数方向の攻撃手段などが次々に出てくるが、説得力に乏しい。

 むしろ、一番おもしろいのは踊りによる対決だ。これは戦闘場面の前に起こる。ここの着想は秀逸。戦いの前も、都市の破壊の前も、この〈高次幾何存在〉は踊る。それには意味がある。彼らは〈重なり合う無数の……パターン、とでも言うしかないもので構成されててね、そのパターンに従って身体を動かすことで、この世界の外からパワーを得ているの。それがあの踊り〉とニーナは説明する。この踊りは戦う相手に応じて特化された踊りだ。だから、予期せぬ攻撃を受けると対応が遅れることがある。う

 このニーナは凄惨な戦いの現場に天から舞い降りた天使のような存在なのだが、ニーナ自身も悲惨な過去を秘めているらしい。だから最後は米軍へのこれ以上の協力を拒み去ってゆく。でも、これがシリーズ化されれば、なんとなく戻ってきそうだ。

 どうも審査員たちの、長編の一部としての短編、という概念に当てはまりすぎているのが評者には不満だ。短編は必ずその前後を感じさせるものでなくてはならないのか。それは始めに長編ありきの考え方ではないか。アイルランドスコットランドのような短編王国では始めも終わりもなく短編は短編なのだ。それ以外の何者でもない。長編小説とはまったく違う小説ジャンルである。そのような王国では短編を書けるのが真の作家である。だから、逆に長編の質を測るために短編なみの質が一貫して維持されているかどうかが問題にされたりする。英米の短編小説をよく読んでいる村上春樹はだから短編が非常にすばらしい。「象の消滅」の英訳が代表作とみなされるのは当然だ。

 

 

「歴史小説」以前である

ポール・モーガン『ペラギウス・コード  -古代ローマの残照の彼方にー』

 

 4-5世紀のローマ帝国の末期的状況をアウグスティヌスの論敵であったペラギウスを中心にえがいた歴史小説。原著は2005年にオーストラリアのペンギン・ヴァイキング社から The Pelagius Book の題で刊行されたが、現在、絶版。電子書籍化もされていない。

 語り手はカエレスティウス。本作ではペラギウスの「秘書」とされている。本作ではペラギウスの教えを忠実に受けてブリタニアにペラギウスの思想を広めにゆくとされる。

 本作の主人公はペラギウス。ブリタニア出身。本書によれば〈自由意志を強調するペラギウスは、アウグスティヌスの主張(原罪と罰と肉体の汚れを強調)に真っ向から異を唱える人物として注目されることとなったが、キリスト教ヒューマニズムともいうべき、斬新かつ明晰な彼の思想は、帝国各地の貴族や知識人の間に絶大な支持を得ていった〉。

 いま引いた文章は物語が始まる前の「歴史的背景」という序章からであるが、これがすでに「歴史的背景」でない。はたしてペラギウスは〈真っ向から異を唱える人物〉であったのか。〈キリスト教ヒューマニズムともいうべき、斬新かつ明晰な彼の思想〉といえるだけの材料があるのか。

 ここがすでにフィクションであるとすれば、それは一般に理解される「歴史小説」の枠を逸脱するだろう。おそらく多くの読者はここは「歴史的事実」を書いたもので、そのあとに始まる物語がフィクションだと了解するだろう。だとすれば、出発点が既に歪んでいる。

 出発点ということでいえば、「物語」の書き出し(の原文)は高い評価を受けている。しかし、本書からはあまりそれが感じられない。ヘラクレイトスの断片79の引用だけれど、そこに含まれた逆説的言説およびそのあとの文が日本語として意味があまりわからない。冒頭の一文がヘラクレイトスの引用であることは著者自らが断っているが、実はそのあとの、段落最後の文も、他の思想家の引用あるいは変奏ではないか。評者はこれはゼノンの静止した矢のパラドクスへの言及だと考える。

 こういうふうに物語で最も力を入れたであろう冒頭の段落が、本書では理解がむずかしい。小説で最も重要な入り口がこれでは、「小説以前」であると考えざるを得ない。

 もうひとつ、評者が本書の「歴史的背景」の把握に疑問を感じる点がある。巻末の「謝辞」に挙げられた参考文献表に、肝腎のカルタゴ教会会議(418年)の文書(DS222-230)がないことだ。この文書に当たっていれば、教皇ゾシムスが承認したことが確実なのはDS225のみで、他の条項については承認したかどうかが不明であることがわかるはずだ。本書は神学的問題が中心的テーマであるにもかかわらず、その原典に当たっていないことは著者の姿勢に疑問をいだかせる。

 以上のことから、ペラギウスをめぐる歴史小説を通じて、この時代のローマ帝国や神学的状況の理解を深めたいと思う読者には、本書はあまり適当とは言えない。

 

ペラギウス・コード―古代ローマの残照の彼方に

ペラギウス・コード―古代ローマの残照の彼方に

 

 

 

飛浩隆「La Poésie sauvage」の前日譚

飛浩隆『自生の夢』

 

 飛浩隆「La Poésie sauvage」(「現代詩手帖」2015年5月号)が本作「自生の夢」(2009)の延長として生まれた。「La Poésie sauvage」に感じ取れたのと同質の詩情(ポエジー)を期待したが本作にそれはない。むしろ、得体の知れぬ巨悪のどす黒さに視界まで濁る。

 おそらく殆どの読者は(SFに慣れている読者でも)視界を濁らされると思う。だから、解説の大森望も事実上何も言っていない。言っているのはただ〈J・G・バラード的な角度から情報技術にアプローチし、Google時代のテクノロジカル・ランドスケープを審美的に描き出す〉ということだけ。だがその形容が当てはまるのはむしろ「La Poésie sauvage」の方だろう。これを読んでそんなランドスケープが描ける人がいるなら、ぜひその風景観を聞いてみたい。

 約百枚の短編。そのプロットは、七十三人を死に追いやった殺人者を、ある怪物を滅ぼすために召還するというもの。前者はよく分かる。死に追いやろうとする者としゃべるだけでその者を死に至らしめる異能者である。だが後者が分からない。いや、「La Poésie sauvage」の読者には分かるのだが本作だけではほぼ分からぬ。そんなのはありだろうか。6年後に生まれる作品で初めて分かるようなものなど。何か正体の分からぬ塊をどろっと流し込まれた印象だけが残る作品など。あるいは作者は読者の中で6年という歳月が発酵するのを待って次の作品を送り出したのか。

 具体的にはインタビューアが殺人者・間宮潤堂と対話する。その対話それ自体が、真の敵・〈忌字禍(イマジカ)〉との闘争そのものである。そのインタビューの実体はコンピュータ上の膨大な計算である。

 本作に綴られるのは〈多くの人間を死に追いやった稀代の殺人者間宮潤堂が、いかにして死の国から還って来、彼(か)の怪獣を討ち滅ぼしたかをめぐる、波乱万丈のお話しであるが、表面にあるのは静かな対話だけだ〉。これが静かか! と思うと〈どんなに騒々しい小説でもそれが書かれていくのは静かでフラットなディスプレイ、もしくは紙であるのと同じである〉と書いてある。

 何かが始まる予感がするが、冒頭部分に「行け、これにて去れ」という言葉がある。つまり、読者に読まずに回れ右せよと告げているのだ。まあ、正直、それに従った方がよい気もする。書くということ、そしてそれを読むということ、これそのものがこの世界と深く関わっており、それは覗かぬ方がよいのかもしれない。

 だけど、評者は最後まで読んだ。そして、「La Poésie sauvage」の意味をより深く理解した。それゆえ、逆説的になるが、「La Poésie sauvage」の世界がいかに生まれたかに関心ある人なら、あるいは読む値打ちがあるかもしれない。2010年星雲賞(日本のSF賞として最も長い歴史を誇るSF賞)日本短編部門受賞作。

 

NOVA1【分冊版】自生の夢

NOVA1【分冊版】自生の夢

 

 

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全人類に向けられた普遍的メッセージとしてイスラームに向き合う

中田考イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』

 

目次

入門書ではない

 イスラームに関する入門書とはいえない。イスラームを異文化として理解するなどという態度(たとえばサイードのオリエンタリズム)は初めから間違いであ るとされている。では、いったいどんな読者が想定されるのか。それが判然とせぬまま読者は、日本人イスラーム法学者たる著者のラディカルな議論のただ中 に、放りこまれる。だから、決して読みやすい本でもない。

 むしろ、本書は、〈イスラームと日本文化の双方を相対化した上で、日本語によって「イスラームのロジック」を再構成する道を模索する〉書である。それに よって、世界十五億の民を動かす「論理」を理解することを目ざす。ここでイスラームじしんの相対化が含まれていることが、本書のラディカルな所以である。

 「日本語によって」も見逃せないポイントだ。イスラームの宗教儀礼は原則としてアラビア語以外使えないからだ。ローマカトリクでも1960年代まではミ サでラテン語しか使えなかった。著者はその後、『日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解』(2014)という画期的なコーラン翻訳をしている。

 はたして本書は日本人読者に理解を求めているのか。そもそも、コミュニケーションが成立すると考えているのか。それについて確信が持てぬまま読み終えた読者は、つぎにどこに向かえばよいか。

普遍性

 たった一つ、拠りどころがあるとすれば、普遍性である。イスラームの普遍性から目をそらさぬ限り、人間であれば、いつかは理解に達することだろう。

 ひとことだけ。カトリシズムはそもそも普遍性を意味する。一方で、イスラームは帰依を意味する。

現代から過去へ

 著者は「イスラームの歴史」を理解するために、現代から話を始める。過去から現代へと進む通常の歴史書とは逆の方向である。その理由がイスラーム神学でいう「時間原子論」 に基づく。時間を連続のものとみなさず、不連続かつ不可分の点の系列とみなし、世界が「一瞬ごとに無から創造されそのたびに消滅し、それを繰り返す」と考 える。そこから出発し、解釈学的な議論をへて、現代から過去へ進むのが、過去を理解する唯一の道であることが説かれる。

 このあたりの議論は、理解可能だけれども、この種の神学的時間論や解釈学に不慣れな人には、とても迂遠で韜晦なものと映るかもしれない。しかし、これは ハッタリでもなんでもなく、きわめてまっとうな議論である。この時間論のような例がすんなり理解できれば、普遍の学としてのイスラームの理解に一歩近づけ る。

 しかし、相当むずかしいこともまた事実である。にもかかわらず、この書で著者の核にある熱気の根源に触れれば、その彼方に、〈日本語/日本文化の中ではいまだ「語ることができない」イスラームの存在〉が見えてくる。

 池澤夏樹折口信夫について使ったことばを引けば「文章は難解でしばしば矛盾しており、読むというよりは必死の解読に近く、進んだつもりでいても実は出発点に戻っていたりする」ような文章だ。根源的な難しさがある。

二〇世紀

 著者は〈二〇世紀は唯物論の世紀として幕を開け、宗教復興によって幕を閉じた〉と述べる。この見解は、たとえば、ジル・ケペルの『宗教の復讐』の読者にとってはなんら奇異なものでない。この文脈に立つと、〈イスラーム世界では、ソ連の崩壊はイスラームに対する無神論の敗北を意味〉するという著者の指摘がよく分かる。

 だから、著者が〈宗教は消滅しつつある、という一九世紀的幻想にいまなお支配され、「神の死」が無邪気に語られる日本の「現代思想」の不毛性を露呈させ る場が、イスラーム世界なのである〉と述べるとき、特に変わったことを語っているつもりはなく、著者にとっては常識に属する認識である。

イスラエル

 著者は〈イスラエルとは、イスラーム世界に押しつけられた、西欧の内部矛盾〉であると述べる。イスラエルを〈ヨーロッパ人がパレスチナにつくった植民地〉と見なすところから、この認識が導かれる。

多神教 vs. 一神教

 著者は〈根源的な問題として「仏教、神道多神教」 vs. 「キリスト教イスラーム一神教」という二項対立構図がそもそも成立するのか、ということ自体が問い直されなければならない〉と述べる。

 問い直しの契機となる例がいろいろ挙げられる。たとえば、世界最大のムスリム人口を擁するインドネシア憲法で定義する一神教の範疇には〈イスラームカトリックプロテスタントと並んで、仏教とヒンドゥー教が含まれ〉る。

 また、唯一神道(吉田神道)の継承者でムスリムでもある故・澤田沙葉(サファー)は唯一神道を一神教とみなした。

 浄土真宗とイスラームの比較研究を行った狐野利久は〈日本人のイスラームの宗教に対する理解は、西洋を媒介とした理解が多いせいか、筆者自身も誤解して いたところがかなりあった。ところが、『コーラン』を読んでみて、意外にも親鸞の思想に類似しているところがあって驚いている〉と述べる。

イスラームとヨーロッパ

 著者は〈ヨーロッパとイスラーム世界を同一の文明と呼ぶ〉。

 地理的なヨーロッパの定義に含まれる地中海沿岸諸国にムスリムの国々があること。

 中東史家三木亘によれば〈中世のヨーロッパはアラブ・イスラーム教徒主導下の一神教諸派複合文明と言える「西欧」の普遍文明の、むしろ周辺の一要素〉であること。

 西欧思想の二大源流といわれるヘブライズム(ユダヤ思想)とヘレニズム(ギリシア思想)は〈イスラーム文明の源流でもある〉こと。

十字軍パラダイム

 聖地回復をめざす11-13世紀の十字軍とスペイン再征服を完了した15世紀のレコンキスタにつき、著者は現在もなお、〈イスラームを敵対視するヨーロッパのイスラーム認識の基調低音〉となっていると述べる。

 1099年にエルサレムを攻略した十字軍が四万人の非戦闘員のムスリムユダヤ教徒を殺戮したことについては、〈律法を持たない「無法」なキリスト教徒の十字軍の野蛮さは、最後の普遍宗教としてのイスラームが、異教徒を庇護民として受け入れる他宗教との共存のシステム、非戦闘員の殺害の禁止などを法制化しており、また概して実際にも守られていたのと好対照をなしていた〉と述べる。

 ここまでが第1-2章の内容であり、以下、第3章「アッラーフ」、第4章「預言者ムハンマド」、第5章「ウンマの歴史」とつづく。「アッラーフ」(Allāhu)とは「アラー」「アッラー」のこと。ウンマイスラーム共同体のこと。

 

太宰治「善蔵を思う」の表題と中身━━吉本隆明を手がかりに

 太宰治の短編小説「善蔵を思う」(1940年4月)は表題と中身が合わぬ。善蔵とは太宰の同郷の作家、葛西善蔵のことなのであるが、作中にはそれらしき人物が登場しない。ゆえに、読んだ人は表題の意味について首をかしげることになる。

 主人公はDという青森出身の作家で、明らかに太宰治とおぼしい。「私が九月のはじめ、甲府から此の三鷹の、畑の中の家に引っ越して来て」と書かれているが、太宰は1939年9月から1948年6月まで三鷹で暮らした。

 引っ越して「四日目の昼ごろ、ひとりの百姓女がひょっこり庭に現われ、ごめん下さいましい、と卑屈な猫撫声を発した」。「薔薇を、な、これだけ植えて育てていたのですけんど、家が建つので可哀そうに、抜いて捨てなけれやならねえのよ。もったいないから、ここのお庭に、ちょっと植えさせて下さいましい」と口上を述べる。「余りに完璧」な百姓女然とした服装に、たちまち「贋物に違いない。極めて悪質の押売りである」と心中で断ずる。けれども「叱咤し、追いかえすことが出来」ず、結局、薔薇八本を買ってしまい、後悔する羽目に陥る。

 「だまされた」と自覚しているので、話がこれで終われば、きわめて後味が悪い。しかし、「十日ほど後、あまり有名でない洋画家の友人が、この三鷹の草舎に遊びにやって来て、或る、意外の事実を知らせてくれ」ることになる。

 この終わり方について、吉本隆明が「オチがうまい」と評する。それだけでなく、表題の示唆するところについてまで洞察をしめす。葛西善蔵について次のように言う。

私小説作家の無茶苦茶な作家で、これは、もう一般の人、社会の人から毛嫌いされて読まれるはずがないような、無茶苦茶な私小説を書いた人です。でも、心ある人が、あるいは心ある体験をした人がそれを読めばやっぱりものすごく感心せざるを得ない私小説なんですよ。それは、太宰治は、そのことを言いたいために書いてるっていうこれが、表題から見ればすぐに見当がつくわけで、結局そこまで読めっていう作品

であると。このことを吉本は「芸術言語論――沈黙から芸術まで」(2008年7月19日)という講演で語った。

 この講演は吉本の独創的な芸術言語論について3時間あまり語ったもので、言語の幹と根、および言語の枝葉の二つを峻別し、前者を「自己表出」、後者を「指示表出」と呼ぶ。非常に興味深いけれどもまだ書物になっていない。評者はもう三回くらい聴いた。何度聴いても汲み尽くせない。

 「善蔵を思う」について、その表題と中身との関係についてほとんど何らの説もない中で、近代文学の研究から出発した吉本隆明がここで提出する観方は、手がかりとすることができれば、かなり面白いことになるのではないかとの予感がする。自身の造語である「自己表出」を用いて吉本はこう説く。

太宰治は、要するに、表題と中身となんの関係があるかって何気なく読んだら、そうなっちゃうんですけど、ちゃんとして読むと、これは、ちょっとまだその向こうっ側に何かあるんだよって、その何かは、この私小説作家が、やっぱり文学にとっては本質的な部分、自己表出のっていう面ではたいへんな作家なんだよ、ということが人にわかって欲しいんだよ、自分も、そうだけど、それをわかって欲しいんだよ、っていうことを暗に言ってるわけ

であると。ここでのポイントは、おそらく、「自分も、そうだけど」のところだ。つまり、「偶然と偶然の出会い、しかも、偶然の自己表出と、偶然の自己表出が、読者と作者の間に成立したときだけ、芸術言語の価値っていうことを言いうる」という事態がここで起こっている。その意味で、葛西善蔵太宰治と読者とを貫く太い線がここにある。「文学芸術の感銘」はここ、「自己表現と自己表現」の偶然の出会いの場にしかないと、吉本は主張しているように思われる。

 

善蔵を思う

善蔵を思う