JAZZ 愛すべきジャズメンたちの物語
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敬愛する椿 清文さんの新著である。
椿 清文著 『JAZZ 愛すべきジャズメンたちの物語』
(ネット武蔵野、2004)
ISBN 4-944237-40-5
副題に「ジャズをとおして知るアメリカの光と影!!」とある。帯には「ジャズを知らない人も、知っている人も、知り尽くしている人も、ジャズが、もっともっと好きになる!」とも。
結論から言うと、帯に偽りなし。その通りである。この本は、ジャズやアメリカについてよく知っていると自負している人にこそ読んでほしい。
本の体裁は横長で、写真などがちりばめられ、項目は短く切ってあり、ジャズが初めての人にも読めるよう、数々の工夫が凝らしてある。
だけど、そういう表面的な印象の陰に、おそるべき学殖が隠されている。その学殖や薀蓄の部分は初心者にはあるいは見えないかもしれないが、知る人が読んだら思わず膝を叩いて喜ぶことは疑いない。以下、その実例を少し挙げてみよう。
第二部の第七章「セロニアス・モンクとバド・パウエル」。副題に「ジャズ・ピアノを芸術に高めた二人の巨人」とある。
書出しが「ニューオーリンズの昔から、ピアノはジャズの主要な楽器の一つだった。」とくる。これが、もう、たまらない。一見、さりげない記述だが、これは、日々、ニューオーリンズの(ピアノ)音楽を聞いて暮らしている人間にとっては、当たり前のことを言われたという感覚でなく、よくぞ言ってくれたという思いを感じさせるものである。
続く文章はこうである(85頁)。
ベイズン・ストリートに立ち並ぶ高級娼家には、広間に必ず一台のピアノがあった。腕利きのピアニストがジャズやブルースを弾き語りで聞かせては、つかの間の安らぎを客たちに提供していた。
当時のニューオーリンズの模様が目に浮かぶ。当時と書いたが、今でも環境こそ変われ、その雰囲気は残っているのではないか。ぼくがニューオーリンズに行ったのは20年以上前のことだが、そういう感じは確かにまだあった。街じたいがそういう独特のオーラを発揮しているのがニューオーリンズという所だと思う。
つぎの頁にはこうある。
モダン・ジャズの世界にも多くの優れたピアニストが去来したが、その中で最も偉大な存在として、1917年生まれのセロニアス・モンクと1924年生まれのバド・パウエルを挙げることができる。
この発言は、見方によっては至極当然とも、ずいぶん思い切った見解ともとれる。
ピアニストから見れば、特にニューオーリンズ系のピアニストから見れば、最も偉大なピアニストはおそらくアート・テータム(1910-56)である。他のピアニストが頭を掻きむしって、「奴はいったいどうやってあんな風に弾けるんだ」と苦悶させられるくらい凄いピアノをテータムは弾く。ピアノのテクニックや表現として見れば、考えられないくらいの高みにテータムは達している。ピアノという楽器から予想しうる範疇を超えた音という風にピアニストには感じられる。
一方、モンクやパウエルはピアニストから見れば、ピアノという楽器から予想しうる範疇には収まっている。その意味では、別に凄いと感じられない。けれども、その音楽が意味するところを考えると慄然とさせられる。モンクは「ピアノの詩人」と呼びたいようなごく個人的で独創的な語法をつかう。パウエルは和声付けそのものを即興演奏の対象に含めたことで驚きを与えた。これは、ピアニストから見れば、音よりも、そこに込められた内側の世界の衝撃のほうが遥かに巨大であることを意味する。しかし、パウエルの場合は理論的解析が可能なのですぐに追随者を生むが、モンクの場合は余人には窺い知れない内面世界がベースとなっているため孤高の存在とならざるを得ない。
椿さんはモンクのピアノについてつぎのように書く(86-87頁)。
特にユニークなのがモンクの弾くアドリブ・ソロで、それはバッパーたちのアドリブとは全く異なる感覚のものだった。バッパーたちは、テーマ(主旋律)はアドリブのための素材にすぎないと考え、テーマとは全く違ったアドリブを演奏することを目指したが、モンクはアドリブを弾くときも、決してテーマを忘れなかった。むしろモンクにとってアドリブとは、テーマをより膨らませ、テーマを魅力的に輝かせるためのものだった。〔中略〕モンクはチャーリー・パーカーのように、ひたすら前に向かって疾走するのではなく、ゆっくり歩きながら時々立ち止まり、物思いに沈むかの感がある。
このテーマとアドリブとの関係は、シャン・ノース歌唱(特にコナマラ)における旋律と装飾音との関係を想起させる。「テーマを魅力的に輝かせるため」という感覚はまったく同じである。モンクが好きな人はたぶんダラフ・オ・コインも好きだろう。
極めつけの発言はつぎのものである(89頁)。
モンクは、まぎれもないモダン・ジャズ最大の作曲家であった。
もう一つだけ例を引く。「ジャズの歴史とレコードは、切っても切り離せない関係にある。」に続く箇所(14-15頁)。
長い間ジャズのレコードはSPレコードの時代が続いたので、われわれが耳にする古いジャズの演奏はすべて3分前後の長さである。
これなどは当たり前のことなのだが、CD以降に音楽を聞き始めた世代には、その二つ前のテクノロジーのことは想像力を働かせにくいだろう。ありがたい記述である。
ところで、この事情はアイルランド音楽でも全く同じで、たとえば、本欄でも紹介した 《Seoltaí Séidte》 のようなSP原盤集でもそうである。
ところが、一つ違いがあるとすれば、ジャズにせよアイルランド音楽にせよ、もちろん、ミュージシャン側ではライヴ演奏はもっと時間が長いということは知っていたのだが、アイルランド音楽ではつねに口承伝統のほうがレコード音楽よりはるかに重みがあったこと、あるいは現在もあることである。その事情が端的に現れるのはシャン・ノース歌唱で、ある歌の全連が録音されることはきわめて稀である。それは現代においてもそうである。したがって、その歌の全容が知りたければ、歌われるところに居合わせるしかない。歌詞は殆ど書き留められていないからそれしかない。ブルーズの場合にはどうなのだろうか。シャン・ノースのように十連も続くような歌は普通のレパートリーにあるのだろうか。西アフリカのグリオの歌はどうだったのか。王のほめ歌のようなものは長かったのだろうけれど。
いずれにしても、ジャズがメディアと深い関係にあるということは、やはり都市志向の音楽であるがゆえのことだろうと感じさせられる。*1'Jazz Age' ということばが指す1920年代こそは黒人の演奏が録音され始めた時代でもある。
この本を読めば、その時代が、黒人の北部への大移動という米歴史上の大事件の直後に起こることがよく分かる。
椿さんの本はちょっと植草さんの本にも似ていて、本を読んではレコードをかけ、レコードを聴いては本を読みたくなる、そういうリズムを生み出す。初心者ベテラン問わず、ジャズに関心のある人には心から推薦します。それから、中村節子さん担当のブックデザインは遊び心にあふれ、毎頁めくるのが楽しくなるようなものです。横長の判型をいかした傍注の配置も親切です。
なお、椿さんは津田塾大学英文学科教授として、アメリカ文学・文化について講じておられます。
*1:ジャズとレコード録音との深い関係は、往々にして「名〜」という表現に表れる〔名演、名作、名唱等々〕。この本でもそうだが、それは著者に限らず録音を一つの軸とするジャズ関連の著述に一般的な特徴と思う