横山徳爾『ロングマン英語引用句辞典』
加島祥造『引用句辞典の話』(1990)によれば、本書(1986)は日本初の「翻訳・英文引用句辞典」だという。だが、その後もその種の引用句辞典は出版されていない。ゆえに、空前絶後。
もっとも、本当のことをいえば、本書以前に市河三喜『英語引用句辞典』(1952)という大著がある。
いづれにしても、本書は貴重な存在といえる。この種の辞典がなぜ重要なのかについて難波紘二は『引用句辞典の話』の書評でこう記す。
知識や情報も同じことで、事物や事件に関する個々の知識を「一次情報(知識)」という。知識(情報)についての情報が「二次情報(知識)」であり、「メタ知識」ともいう。メタ知識にもさらにメタの位置を占めるものがある。レベルが上がるにつれ知識の抽象度が増す。
メタ知識は、必要に応じて、オルソ位置つまり一次情報(知識)に降りて行けるものでなくてはならないが、日本の本にはそのための索引や出典の記載がないものが多い。〔ortho- は「正位置」を表す。〕
詩歌や小説や随筆を書く人には類語辞典や引用句辞典が必要である。
実をいえば、書く人だけでなく、読者も引用句辞典の類が手許にあれば助かることが多い。さらにいえば、翻訳者にも引用句辞典は必須である。
引用句辞典が役に立つ局面はさまざまである。英語で出版されている引用句辞典は数多いけれど、英語以外の典拠が英訳されて使われた場合など、その元の文脈が判らないと意味がとれないことがある。ひとつ例をあげよう。
All for one, one for all.
英語の諺かなにかと思っている人もあるかもしれないが(あるいはラグビー関連でそのように考える人もあるかもしれないが)、この出典はフランスの小説『三銃士』である。したがって、その文脈をふまえて本書はこう訳す。
四人一体。
━━アレクサンドル・デュマ『三銃士』第9章(1844)
この標語を提案するのはダルタニャン。三銃士と共に、今後、枢機卿を敵にまわして争うとの宣言である。そのような典拠を知らなければ意味のとりようがない。そういう意味で、書く際、読む際に一次情報の文脈まで伝えてくれる引用句辞典の存在価値は大きい。
とまあ、本書で分かるのはここまで。『三銃士』の出版から約20年たったころ、スイスではあるきっかけでこの言葉(元のフランス語は tous pour un, un pour tous)をひっくり返した "Unus pro omnibus, omnes pro uno" が国の非公式の標語のように用いられるようになる。これはラテン語だが、他に、フランス語版 "un pour tous, tous pour un" をはじめ、ドイツ語版、イタリア語版、ロマンシュ語版もある。この四つの言語がスイスの公用語だが、そのどれにもくみさぬ中立の言語としてラテン語がいわば代表する形で使われる。ちなみに、スイスの国名の正式名称はラテン語で Confoederatio Helvetica という(「スイス連邦」)。そこから、インターネットのドメイン名でスイス(の国別コードトップレベルドメイン)を表すのが ".ch" になる(日本は ".jp")。だから、欲をいえば、本書はスイスの国の標語のことにひとこと触れてもよかった。