一杯の水 Gloine uisce
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一杯の水を飲む倖せをかみしめる。
琵琶湖のごとく巨きな水甕、すなわち一千万人を超える人々の水源が汚染されたらなどとの懸念から直接発するわけではないけれど、やはり倖せには違いない。それは以下のごとき妄想にしばしば襲われるからだ。
熱い黒烏龍茶のガラス瓶を桶の水で冷やしていると何故か炉心冷却の語が浮かぶ。
英連邦が54あると聞けば日本の原発数54を直ちに思い浮かべる。
アイリシュ海の名を聞けば1970-80年代に世界一の汚染された海であったことを想起する。日本の再処理で儲けており止められない英国ウィンドスケール(Windscale 「ウィンズケール」)核燃料再処理工場から流された放射能汚染水。*1
アボリジニの名を聞けば東電や関電が買っているウランの採掘地としてのオーストラリアを想う。それはしばしばアボリジニの聖地でもある。*2
世界は明らかにつながっている。
その世界とは3月11日以降、変わってしまった世界だ。
技術的理屈は分らなくともただ差別の故に脱原発を目指せと小出裕章・京都大学原子炉実験所助教は語る。危険を他人に押付ける差別。都会に原発を作らず、原発労働者に社会の底辺の存在を使う。*3
毎日生きてゆく上で、これまで意識してこなかった根源的な問いを突きつけられた気がする。
ぼくは一杯の愛蘭の水を飲む。ただその倖せをかみしめる。
Tá buidéal uisce agam atá ag 'An Ainnir Gheal' freisin is fada liom uaim í.