発光しそうな短篇
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森鷗外「花子」
発光しそうな短篇
森鴎外の短篇「花子」を読む。短篇の名手として有名だが、それだけでなく、散文詩のような味わいがある。
ロダンの為事場の描写。
〈或る別様の生活がこの間を領している。それは声の無い生活である。声は無いが、強烈な、錬稠せられた、顫動している、別様の生活である。〉
その為事ぶり。
〈日光の下に種々の植物が華さくように、同時に幾つかの為事を始めて、かわるがわる気の向いたのに手を着ける習慣になっているので、幾つかの作品が後れたり先だったりして、この人の手の下に、自然のように生長して行くのである。この人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。この人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かった刹那に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである。〉
モデルの花子を見つめる描写。
〈ロダンは花子の小さい、締まった体を、無恰好に結った高島田の巓から、白足袋に千代田草履を穿いた足の尖まで、一目に領略するような見方をして、小さい巌畳な手を握った。〉
ロダンが花子に問う。
〈「度々舟に乗りましたか。」
「乗りました。」
「自分で漕ぎましたか。」
「まだ小さかったから、自分で漕いだことはございません。父が漕ぎました。」
ロダンの空想には画が浮かんだ。そしてしばらく黙っていた。ロダンは黙る人である。〉
鴎外の文章の密度の高さは単に濃度を示すのでなく、パウンドのいう「荷電した」charged に近い。散文より韻文にちかい電圧 voltage を感じさせる。いまにも発光しそうな言葉だ。