Tigh Mhíchíl

詩 音楽 アイルランド

記事一覧

mythopoeiaとしてのSF


[スポンサーリンク]

アーサー・C・クラーク地球幼年期の終わり【新版】 (創元SF文庫、2017)

 

f:id:michealh:20190826154458j:plain

 

アーサー・C・クラーク(1917-2008、英国のSF作家)の生誕百年にあたり、今やSFの古典の名を不動のものにしている『地球幼年期の終わり』が新版として、東京創元社から創元SF文庫の一つとして刊行された。ただし、新版といっても、1969年に初版が刊行された沼沢洽治訳を、遺族の了解のもと訳文を見直し、さらに渡邊利道の解説を加えて刊行したものである。

したがって、まずこの「新版」のみにかかわることを述べると、「目をそむけたくなるなるのをこらえた」(330頁)は目をそむけたくなる誤植である。「喩えて言えば、時間は閉ざされた輪のようなもので、未来から過去へと、歪められた事実がこだまして伝わってしまったということになる。」(339頁)は意味不明である。せめて「時間は閉じた輪」とでも表現できないか。輪が閉じているからこそ、未来から過去への回路が出現したとしか理解できない。原文は 'the closed circle of time' だ。

この二点を除き、本書の訳は大変読みやすい。SFの形で綴る未来史を初めて読む場合でも、おもしろいだろう。古典として今も読むにたえる作品である理由がじっくり味わえる。ただし、クラークの1979年の作品『楽園の泉』がヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞しているのに比べると、なぜか本作は何も受賞していない。だが、人気の方は発売当初から大いにあり、刊行から2ヶ月後には初版21万部が完売したほどである。その後も、この書は音楽家に影響を与えたり、キューブリック監督にインスピレーションを与えて映画「2001年宇宙の旅」に結実したりした。ただ、キューブリックは本作を原作とすることができず、代わりにクラークの短篇「番人」(「前哨」)を元にして、二人でコラボレーションの形で映画を作りあげた。

本書に関してはファンタジー作家のC・S・ルイスが、後に妻となる女性に宛てた手紙で綴った率直な書評がよく知られている。本書はクラーク作品の系譜においてみるときに、ハードSFの系譜と、思弁的SFの系譜の両方の要素が融合しているので、まともに論じるのはかなり大変である。そこで、ルイスの作家ならではの視点で、ここがよく書けている、ここが駄目だ、などの歯に衣着せぬ評言は参考になる。1953年12月22日付の Joy Davidman 宛の手紙を見てみよう。ちなみに、本書が刊行されたのは1953年8月24日のことだ。

ルイスは、何も期待せずに本書を読んだところ、驚嘆してしまったと、次のように述べている。

. . . I came to it expecting nothing in particular and have been thoroughly bowled over. It is quite out of range of the common space-and-time writers; away up near Lindsay’s 'Voyage to Arcturus' and Wells’s 'First Men in the Moon'. It is better than any of Stapleton’s. It hasn’t got Ray Bradbury’s delicacy, but then it has ten times his emotional power, and far more mythopoeia.

ここで注目すべきは最後の文でブラッドベリと比較しているところだ。ブラッドベリほどの繊細さはないものの、情緒の力において十倍、そしてはるかに多くの 'mythopoeia' を有していると述べている。'mythopoeia' と は 'mythmaking'「神話をつくること」の意で、ルイスにあっては重要な語である。この語を使っているからといって絶賛していると即断することはできないけれど、ブラッドベリにはない神話形成力をこの作品に見ていることは確かだ。



情緒の面で、本作を読んで涙したところを挙げているのが参考になる。ルイスは次の箇所を挙げている。

The first climax, pp 165–185 brought tears to my eyes. There has been nothing like it for years: partly for the actual writing––‘She has left her toys behind but ours go hence with us’, or ‘The island rose to meet the dawn’, but partly (still more, in fact) because here we meet a modern author who understands that there may be things that have a higher claim than the survival or happiness of humanity: a man who cd. almost understand ‘He that hateth not father and mother’ and certainly wd. understand the situation in Aeneid III between those who go on to Latium & those who stay in Sicily.

最初の文は、ジョージとジーンの夫妻の娘ジェニファが出ていった場面だ(21章)。本書では「あの子は玩具(おもちゃ)を置いていった、でもわれわれ二人は持っていこう」と訳される。ここは確かに胸をしめつけられるところだ。次の文も同じ21章で、章の終わりの文だ。本書で「島は暁(あかつき)を迎えて空に舞い上がった」と訳される。読者の心にふかい余韻を残す。

しかし、こういう文体のすばらしさよりも恐らくもっとルイスに感動を与えたのは、〈世の中には人類の生存とか幸福よりも大事なことがあるかもしれないということを理解する現代作家〉に本書で出会えたことだ。これはただちに人間存在をめぐる思想上の問題に直結する。

事実、ルイスは続けて神学的な課題に言及する。新約聖書ルカによる福音書14章26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」の箇所だ。つまり、キリストの弟子となる条件として父母や兄弟を、さらに自分の命を憎むことが要求されている。子供がより高い目標のために家族の絆を断つこともあることが示唆される。

こういう、いわば「出家」をSF的に展開する現代作家がいることにルイスは感銘を受けたのだ。『アエネーイス』においても、イタリアへ渡る人々がいなければ、ローマの基礎は築かれなかった。新天地の開拓者はそれまでの絆を捨てるのである。



神話の面で、ルイスは深遠なことばを用いて次のように述べるのみだ。

We are almost brought up out of psyche into pneuma. I mean, his myth does that to us imaginatively.

プシュケーからプネウマへの方向が、本書の Overlord〈上主〉から Overmind〈主上心〉への方向に対応するのだろう。

これ以上、神話について言及がないのは、ひょっとすると、もうひとつの「脱神話化」を念頭に置いているのかもしれない。本書の〈上主〉が人類の記憶にある、ある忌まわしい存在に似た姿だとされることは読者に衝撃をもたらす。ある意味で、従来の神話の逆転に当たる。その点では、新たな神話の創出とも言える。



全体として、本書は科学を超えた宇宙論の彼方を指ししめすような壮大な構想を有する。人類と地球の関係、宇宙における人類の運命、宇宙の尺度における物質と精神。これらのことについて、哲学的・神学的な思索を誘うような懐の深さと魅力的な物語を備えた作品だ。世界文学の傑作。