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脳ほんらいの活性を取戻すことはできるのか


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大橋力『音と文明』(岩波書店、2003)

言語脳の知に覆いつくされた現代。はたして非言語脳の知を回復する手立てがあるのか。そんなスリリングな問いを立て、どこまで分かり、どこまでが可能なのかを、諸学の成果を結集し、環境学者として、音楽家として、緻密に、丁寧に、誠実に追究した書。2003年岩波書店刊。その後のテクノロジーの発達で、どこまで可能性が拡がったのか知りたい。

著者の大橋力の洞察の根源にあるエネルギーは一体どこから湧いてくるのか。想像でしかないが、音楽人類学者小泉文夫の薫陶を受け、インドネシアはバリ島のガムラン音楽に心身を浸すことで、現代人に稀有な活力を得たのではないか。

生きるうえで音や光の環境がいかに大事か。現代の生活で音や光がいかに情報量乏しく、我々の心身を衰退させているか。気づいてしまったら、後戻りはできない。しかし現代の技術文明は、その圧倒的に豊かで複雑で高密度の音や光を生活にいかすテクノロジーを育ててこなかった。だとしたら、何ができるか。それを徹底的に考えぬいた成果が本書。著者のライフワーク的なものにも見えるが、おそらく本人の頭のなかでは出発点のスケッチに過ぎないのだろう。

600頁に達する本書じたいが複雑で高密度な知の森と感じられる。そこに分け入ったひとは時間の経つのをわすれる。簡略化して紹介するのさえ困難な豊饒の海。これだけはという必要最低限のところのみ抜書きすることで紹介に代えたい。

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音こそは、より厳密にいえば弾性波の形をとった信号こそは、環境から私たちにつかわされる究極の使者だからである。(3頁)

じかに伝わってくるこれらのメッセージ〔温度、触感、味、香り〕を受けとるやり方を、〈密接受容 (contact sensing)〉と呼ぶことにしよう。この形式は、あらゆる地球生命に普遍的に、それをみることができる。一方、音や光が使者になると、広大な環境からの数限りないメッセージが、遠近にかかわらずもたらされるようになる。距離を隔ててやってくるこれらのメッセージを受けとる仕組を、〈遠隔受容 (remote sensing)〉と呼ぶことにする。この形式は、進化した地球生命の一部、とりわけいわゆる高等生物に、その発達した姿をみることができる。(4頁)

諸民族が悠久の時をかけて練りあげてきたそれぞれの文化の伝承こそ伝統知の宝庫である。音に対する感覚、意識、対応のモードは、強固な人類普遍性をもつ一方で、地域、民族、文化による多様性も著しい。(37頁)

伝統知の源泉としては、地球諸民族の伝承する文化を重視することはもとより、人類の起源をはるかに遡ってもっとも始源的な地球生命から始まる叡智の潮流にまで学び、発想や検証の糧とする。その際、伝統知を構成する情報構造の神髄が直観知、体験知、洞察知などの暗黙知の領域にあることを十分に尊重し、それらに対応する非言語性(非記号連節性)情報処理能力を高い水準に錬磨し確保することに努める。一方、現代知については、地上の生命が獲得した最強の問題処理の手段というべき科学技術を自家薬籠中のものとし、効果的に駆使する戦略を中心に据える。その際、デカルトの衣鉢を継ぐ近現代知のすぐれて良質な作法である「明晰判明」を旨とすることを忘れない。これらによって、現在の人類に可能な最高水準の洞察性、卓見性、信頼性、精密性、再現性、予測可能性、そして正当性、成功性などがもたらされることを期待している。(37-38頁)

ここで注目しなければならない重要な原則として、地球生命の生体制御機構の進化的開発は、先発の方式を基礎としてその上に後発の方式を「積み上げる」ことを本筋とし、先発の方式を捨てて別な方式と入れ換える道を採らないという大前提のもとにある(ちなみに人工知能の領域で成功を収めたロドニー・ブルックスの〈サブサンプション・アーキテクチュア〉は、この原理を応用したものである)。(41頁)

このように検討してくると、地球生命の環境認識の基本構造が、環境から発信の意図なく送り出された信号を生命の側で自律的にヴァーチュアル・メッセージとしてうけとめ、種に固有にプリセットされたコードに従って固定的に解読するという形式を土台にして築かれていることを否定するのは難しい。すなわち、環境の側では発信の意図を持たないシグナルが生命の側ではヴァーチュアルなメッセージとなり、それを運んでくる音や光などは、環境からのヴァーチュアルな使者となる。(50頁)

街の音は、時間的にも空間的にも連続性に欠ける。それに対して、里の音は、時間的にも空間的にも連続性が高く非定常なゆらぎを伴い、時間や場所の移り変わりがあっても切れ目なくなめらかに音が変化していく傾向が強い。しかも、その連続性はマクロな領域とミクロな領域との両面にみられる。(61頁)

実際、ここに挙げたエアコンやコンビニのような近似接近例はいくらでもみつけ出すことができる。この点において、近現代文明の誇る科学技術とは、熱帯雨林を遠くはなれた人間たちが、遺伝子プログラムに導かれて本来の森の環境や生活との近似を計る適応行動の一体系に他ならないと信じられるのである。(87頁)

人類の持つもっとも成熟をきわめた芸能のひとつであろう日本の能楽では、その舞を構成する動作のモジュールが直線と円だけに限定されていて、(エウクレイデスの)『原論』との一致を見せる。それ以下には凝縮できないこの簡潔な所作から比類ない深奥幽玄の表現世界が描きだされる。(158頁)

人類に恵まれた高性能の音発生メカニズム——〈声〉は、文明を育てた言葉という音の体系の原材料でもある。声のもつ連続性を断ち切り不連続な意味の粒子として紡いでいく言葉の開発こそ、ヒトの脳機能のデジタル世界への飛翔であり、地球生命の進化史の中でもひときわ革命的な事件に違いない。(167頁)

初期人類が音声言語を使用した可能性はきわめて強く否定されている。音声言語伝達の開始について早期をとる説でもホモ・エレクトゥスの段階つまり180万年前以後に過ぎず、遅い時代をとる説としては、わずか4-5万年前とする論も提唱されている(195-196頁)

もう一方が〈洞察性の思考〉である。洞察は、人類に限らず高等動物の問題解決のひとつのモードを指す生物学的概念として確立している。高度に発達した脳をもつ動物が情報環境と自己の内部状態の包括的な把握・認識に基づいて突発的かつ直接的に、つまり超論理的に問題を解決するフローである。このモードでは、ふつう、若干の試行錯誤ののち突然、正鵠を射た直接的な行動を発現する。(200頁)

広大な領域に拡がる非言語脳の活性は、言語脳機能による情報処理の次元や密度そして速度を大きく凌駕している。こうした脳のなりたちを実態に即して直截に観ると、「非言語脳を動物に普遍的な脳の本体言語脳モジュールを大型類人猿において脳本体から派生した付帯性の加速器」とする私たちのモデルは、決して不自然ではないものに映るのではないかと思う。ところが、私たちの属する文明の視野はいま、言語脳機能に対する崇拝的といえるほどの関心、つまりその活性への注目、評価、依存などで排他的に覆いつくされている。(209-210頁)

「意識とは何かについては多くの議論がなされてきた。ここでは時空間の中で自分の刻々の行動を再確認していること、自分が今何をしているかがわかっていることであると考えよう。このような定義にしたがえばコンピュータは立派な意識をもっているということができるのである。コンピュータは今何をしているかはコンピュータの中で仕事を統括しているオペレーディングシステムと呼ばれているプログラムが常に監視していて、次にはどのような仕事をやらせるとか、人間でいえば感覚器官にあたる各種の入出力装置がどうなっているかを知り、そこからの情報をうけて適切に対応している。もちろんオペレーディングシステム自身が今なにをしているかを報告せよといわれればすることができる。またコンピュータの中のどこかが故障するとその部分をきりはなし、その部分をさけて仕事をさせるような手はずもととのえることができる。こういったすべてのことは外部に対して詳しく報告をすることもできるうえに、コンピュータは電源を切られて命をうばわれようとしたら、それを瞬間的に検知して演算装置などコンピュータの中枢部分にある情報を安全な永久記憶装置に緊急退避させてから死んでゆくのである。そして次に電源を入れてもらって再生したときには死ぬ直前の状態に復帰して、そこからまた仕事を始めるということすらできるようになっている。
 このようなコンピュータの働きをみると、人間が自分のしていることが何であって自分の頭の中は現在どのように活動しているかを意識できるということとほとんど同じことをコンピュータはやっているといえなくもない。しかしそれでも、意識の根源は自己の存在感、存在意識、すなわち自己意識であるから、これがコンピュータに持てるはずはないという人もいるだろう。では自己の存在感とは何か、それがあるといってもどのようなものであるかを明確に言ってもらわないかぎり意味がない。言葉には出せないが存在感があるのだという表現はあまりにも非科学的、独善的であり、科学的思考を追究している哲学としては矛盾であろう。「言葉には出せないがその自覚がある」というのならコンピュータ自身もそれと同じことを主張することはいとも簡単である。コンピュータは現にここに存在して動いているのであるから」(人工知能学者 長尾眞『人工知能と人間』岩波新書、1992、219-220頁)
(上記の長尾眞の引用は本書211-212頁)

そこでアナログ・ミクシング・コンソールを脳本体、デジタル・エフェクターを付帯した言語脳モジュールと見立てると、言語脳モジュールで行われる情報処理の基本モード(例えば文章を書くのか計算するのか、など)の設定、使われるべきアルゴリズムやパラメーターの詳細、そして情報処理の進捗状態までを管理し、モニターし、脳本体にレポートしているのが〈意識〉に他ならない。さらに、コンソールを操作するミクシング・エンジニアにおけるエフェクト処理中の音の受容に対応する意識からのレポートの脳本体による受領と応答は、非言語性あるいは超言語性を本質とする〈自覚される体験〉の領域の中に、その部分として属することになる。(218-219頁)

私たちの脳のモデルからすると、意識の役割は言語脳モジュールの中に組み込まれたローカル・コンピューターのオペレーティング・システム(OS)に近く、モジュール内の情報処理の管理運営と監視に当り、その状態を脳本体に報告する。ここでの意識の立場は、西欧近代の通念となっている専制的地位から従属的地位に移行し、その上位に脳本体という報告相手を戴くことになる。ここで、報告を受領する脳本体の機能モジュールやその窓口が何かが新しい重要な問題になる。(219-220頁)

この主従関係を援用すると、脳と意識との奇妙な関係を解読するうえで絶妙な効果を発揮する新しい切り口をつくることができる。というのは、私たちのモデルにおいて「主」となる非言語脳本体にとっては、意識というモニター回路を通じて言語脳モジュールの状況を悉(つぶさ)に知ることが有意義であり、それを実現しているけれども、「従」として付随する言語脳モジュールには脳本体の全貌をモニターする意義がなく、そのための回路が高度に整備されている可能性もほとんど考えられないからである。(中略)つまり、デカルト的概念としての意識は、言語脳モジュール自身についてしか悉に知ることも語ることもできない。それにもかかわらずこの意識に脳機能の中枢を担わせるという倒錯に陥ると何が起こるだろうか。
 まず、意識の専制が脳本体のOS本来の多元的・包括的動作を占拠して一次元の逐次的言語処理に閉じこめてしまうことは、体験の承知するところである。(中略)
 このとき発生する次の深刻な問題は、意識の実体をなす言語脳モジュールでの論理的思考の真偽や正否が、閉じられた孤立系内での記号配列フォーマットへの忠実性あるいは無矛盾性だけで、つまり〈語〉や〈記号〉を列べる手続きの自己規則遵守性だけで決定されるという「心」の状態が出現することである。(中略)
 さらに、このモードに入った脳のもつ〈意識〉に対してその脳の活動自体つまり精神のありさまや働きを問いかけると、脳本体と切り離されて閉鎖したパーツになっている言語脳モジュールから自己を脳全体と同一視したレポートが返ってくることになる。(中略)
 このように考えると、デカルト的概念としての意識を通じて脳の全貌をモニターしようとする試み、例えば己とは何かを意識に問いかける哲学の営みは、その設定自体に危険な自己矛盾を含み、良い首尾は望めない宿命を自らに課すことになるのかもしれない。(223-224頁)

現生人類が獲得した言語機能は、たしかに比類ない思考と伝達の装置であり、他に隔絶し人類にだけゆるされた文明の礎であるに違いない。ただし、それは地球生命史に現れた新しい活性の門出のはばたきであり初めての離陸であって、その極みへの到達でも究極の完成でもない。(230頁)

私たちの言葉の脳は、約一億五千万年前のジュラ紀、当時繁栄を極めていた恐竜の中から初めて空中にはばたいた〈始祖鳥(アルカエオプテリクス)〉のつばさとのアナロジーによく調和する。(232頁)

自他ともに許した稀代の天才、アルバート・アインシュタインは、特殊相対性理論を公にしてのち、非言語脳によって十分に予感されている一般相対性理論の記号配列による定式化までに十年の歳月を費やしている。この時差は非言語思考速度に対する言語思考速度の遅れを意味するものとも言えるので、言語脳機能の進化の遅れをとりかえした新しい脳をもつ生命では、瞬時にまでその遅れを短縮できるかもしれない。(236頁)

とりわけ、カントールに対抗したリュイツェン・ブラウアーの〈直観主義〉は、まず「私たちは人間であって神ではない。したがって、すべての命題について「αである」か「αでない」かを確かめる方法をもっていない」という言語脳単独支配の敗北宣言とも言えるものに始まっている。(237頁)

言葉の大きな領域が本質的に離散的であるのと対照的に、音楽を構成する音の高さも長さもともに、原理的にはいかなる値をとることもできるアナログな連続量である。(243頁)

彼の作曲作業を聴覚から切り離す原因になった耳の疾患に本人が気づいたのは、二十七歳(一七九九年)頃といわれる。そして一八〇二年には難聴の悪化に絶望していったん自殺を決意し、有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』を遺している。ところがこの時点で彼は、「視覚的作業による聴覚に依存しない作品創造」という戦略にめざめたであろうことが、結果的に推測できる。そして、こののち視覚による符号情報処理作業を通じて次々に生み出された作品こそ、ベートーヴェンの真骨頂を示すものとなっている。(252頁)

ちなみに、日本の伝統的な三味線楽や箏曲などでは、まずピッチ自体が規定されていず、奏者や共演者など諸条件に合わせてその都度設定される。テンポ、ディナミーク(抑揚)、アゴーギク(緩急)なども、伝統的な奏法の枠組の中で、奏者の任意性に高度に委ねられている。西欧でも、バロック音楽の時代までは、ディナミーク、アゴーギク、装飾音の付加や構成、協奏曲のカデンツァの音列構造の構成(つまり作曲)、通奏低音上に築く和音の構成などが演奏者に委ねられていた。(238頁)

このような実態に注目した音楽人類学者小泉文夫は、「人類の合唱は本来ポリフォニーであり、強大な権力のもとではそれはモノフォニックに変容する」という説を唱えている。(271頁)

絶対音感に伴う問題はさまざまだが、まず第一に、刷り込まれる内容が標準周波数に規定された十二平均律に固定されてしまうこと。第二に、それが排他的不可逆的に刷り込まれること。そして第三に、それが言語機能として刷り込まれる疑いが濃厚であることの三点については、ゆるがせにできない。(278頁)

これらの知見からすると、左脳において言語の知覚に近い活動として絶対音感が処理されている可能性はきわめて高い。(281頁)

つまり、人類の側頭平面の左右非対称性は、左脳が発達して生じるのではなく、右脳の発達が抑制されて導かれる可能性が高い
 この予期せぬ知見を支持するとともに、絶対音感の存在理由を根底からゆるがす発見が、二十一世紀冒頭、ジュリアン・キーナンらによってもたらされた。[J. P. Keenan et al., “Absolute pitch and plans temporale”, NeuroImage, vol. 14, 2001, pp. 1402-1408.](中略)これらに基づいてキーナンらは、絶対音感は、左側頭平面の発達によるのではなく、右側頭平面の「剪定(pruning)」によって起こると結論している。(282-283頁)

二十世紀後半にその権威と普及性の両面でもっとも有力な地歩を占めたひとつとして『ニューグローヴ世界音楽大事典』がある。その中から[Music]の項を検索してみよう。その結果は「無」、すなわちこの項目は存在しない。(289頁)

オアシスの道や草原の道の周辺に展開するシルクロード系の音楽文化に固有の〈無拍の音楽〉は、この問題を検討する材料としてとても効果的に働く。西欧音楽の思想では、たったひとつの音は音楽の素材でしかありえず、すくなくともふたつ以上の音を組み合わせるところから音が音楽に変わっていくとする。(304頁)

この表現をうけもつガムラン楽器の鍵盤の数はすくなくとも四個、多いものでは、十四個くらいにまで達するので、移り変わりうる音高の選択肢も決して少なくない。バリ島のガムランでは、これらを独特のミュート手法によって短いインパルス音に整形し、二人がペアーになって交互に鍵盤を叩いて猛烈な速度で演奏する〈コテカン〉という技法を発達させてきた。それは、西欧のピアノをはじめとする世界のあらゆる鍵盤演奏を凌駕するであろう驚異的に迅速緻密な連鎖音をつくり出している(ちなみに、世界の有力なピアニストたちの運指速度例として、スタニスラフ・ブーニンの弾く『幻想即興曲』では、十六分音符の連鎖として数えてメトロノーム記号で一八三前後、バリ島のガムラングループ、ヤマ・サリでは一九〇くらいに達する)。(314頁)
ことに〔尺八での〕古曲の演奏態度には一音成仏という規範があり、ただひとつの音の中に森羅万象を表現しようとする。対応する技法においては、一個の持続した音の中にアナログなゆらぎ構造を美しく豊かに発生させる技術の習得が、必修的に課せられる。このとき奏者の身体は、複雑な次元と巨大な情報量が渦巻く非言語脳の現況を反映して直観的、反射的に行為し、それがそのまま音の彫塑と発信に効果することになる。そして聴き手は、その振動を客観的、外在的なコードによって解読する以前に直ちに一塊のオブジェとして躰にとり込みながら、宇宙的規模に迫ろうとする暗黙のメッセージと同一化していく。(355頁)

このように、体験性情報処理は、意識される範囲を大きくこえた非言語脳の活動を主流にして進行するという重要な性質を帯びることになる。こうした脳の活動は、たとえ高度に知的であったとしても本質的に非明示的、暗黙的であるがゆえに、ブラックボックスとして捉える側面を欠かせない。なお、この活性の次の世代への継承は、知識を記号化して伝達することを中心にした明示的、合理的な「教育」では十分な効果を発揮できない。そのため、非明示的な情報世界をより効果的に制御することが可能な「伝統」の力に大きく期待しなければならなくなる。
 このような体験性情報処理にかかわる知的活性を〈体験知〉と呼ぶことにしたい。(中略)この活性の拠点として、言語に置き換えることができない情報を自分の「躰」——実は非言語脳——の中にとり込み、同一化し、そしてその稔りを行為として出力していく脳と躰の渾然一体となった働き、すなわち非言語脳機能に注目する必要がある。(383頁)

一方、こうした思想が西欧音楽の世界を支配する過程でピアノに座を譲って退場したチェンバロやいま世界の脚光を浴びるバリ島のガムラン、あるいは西欧音楽とは対照的な思想に立った日本の尺八のひびきなどをみると、その中に、音楽の真髄となる非言語性の情報構造が豊かに発達していることもわかった。これら言葉では捉え切れない音のひびきは、その信号構造の面で、人類の遺伝子に約束された本来の音環境のもっとも有力な候補である熱帯雨林の環境音ときわめて高い共通性をもっている。(390頁)

以上のように、脳の働きという切り口から見て、急性症状としての意識による脳支配、慢性症状としての非言語脳機能の衰弱、これらを直接間接に加速する高度専門化に伴う競争の激化などによって、西欧文明の現況は非言語情報世界の衰退、暗黙知の枯渇をはなはだしくしている。(394頁)

(ビルーテ・ガルディガス〔類人猿研究者〕:)アメリカの文化では、人と人との関係において、常に緊張を強いられます。出会いの場面と逆に、別れて行く場面でも同じことがおこります。声をかけて、肩を叩いて、抱擁して、微笑みを交わして、眉を上げ下げして……、他愛のない話をしばらくして、そうしてようやく絆を確かめて別れて行く。日本では、せいぜい、ただ見つめ合ってお辞儀して、「こんにちは」ですむ。別れは「さようなら」ですみます。(395頁)

〔ビルーテ・ガルディガスと松沢哲郎との対話(「エコソフィア」第5号)を受けて〕ここには、「以心伝心」という非言語コミュニケーションが文化コードとして社会レベルで実効性をもつ事例、それが言語コミュニケーションに置き換えられた形式がかならずしも向上を意味するものではなく、むしろ時間およびエネルギーの損失と緊張の増大という負の効果を伴う事例が描き出されている。(396頁)

それは、特に、長い歴史を通じて凝縮され切った禅の究極的なスローガン、例えば「以心伝心」(言語では伝達不可能な真理を師から弟子に伝えることを意味する禅の用語)、「不立文字(ふりゅうもんじ)」(悟りは言葉や文字で伝達することができないので、それを使わずに非言語的手段で伝達することを表す禅の用語)などが、単に非言語脳機能の優位を説くにとどまらず、言語脳機能の否定や排除を強烈に含意するところにある。(中略)しかし、西欧の現在の知識構造は、言語脳機能以外の伝達回路をすでに衰退に委ね、その生得的な生物コードもおそらく多分に見喪われている可能性が高く、言語依存を強く拒む禅の伝達モードを受容する受け皿が存在するとは思えない。禅が東西の思想の間に横たわる深淵に架橋するもっとも有力な候補として期待されながら必ずしも進捗が好調とはいえない背景のひとつは、この点にあるのではないだろうか。(400頁)

例えば、一九七〇―八〇年代において、録音スタジオの一流のエンジニアたちの中には、可聴域上限を超えるがゆえに人間には音として聴こえない高周波成分の音質向上効果をしっかりと把握している人びとはすくなからず存在し、それを有効に活用する技も振われていた。そうした状況の中に、デジタル録音の規格制定に関連して、正統的な音響心理学の分野で一六kHz以上の高周波が存在してもしなくても音質差は生じないという学術論文が複数登場し、それが学界で定説として確立した。そのあと、どのような反応が起こっただろうか。有力なエンジニアたちの多くがこの問題に関わる自己の信念について微動もさせないまま、公式には口をつぐんだ。(中略)この例に見るように、非言語脳機能を熟知し自家薬籠中のものとしている人びととは、「以心伝心」「不立文字」が通用せず、そして高い確率で不遜の心をもつ相手に対して、通信遮断に転じる生理と一体化した人びとでもあることを承知しなければならない。(401-402頁)

体内にあふれんばかりのさまざまな体験と思考材料をつめこんでアフリカから帰った私にとって、筑波に帰ってまず接したその情報環境は、イトゥリ森の音を知ってしまった以上、ほとんど不気味にしか感じられない音の貧しさの中にあった。その強烈な印象は、あの美しくも濃密な森の景観の印象とともに、「環境情報の栄養失調が筑波病を導く」という作業仮説を直ちに導いた。(424頁)

さまざまな事象から発生する空気振動を、聴こえるか聴こえないかにかかわらず十全に捉えようとすると、その応答周波数の上限を一〇〇kHz以上まで確保したマイクロフォンが必要になることが過去の知見から推定された。しかし、マイクロフォンは元来「聴こえる音」を電気信号に変換すればよいものだから、当時スタジオ録音用として開発された最高級のマイクロフォンでも、人類の可聴域の上限となる二〇kHzをこえる成分に対して忠実な応答を考慮していないのは当然だった。(437-438頁)

そのような条件を満たすために、自然と伝統を高度に確保した文化圏の中から、人類との親和性について歴史的な実績を持つ音楽を構成してきた音源に注目し、フィールドワークを中心に地球規模で素材を二十数年間にわたって探索収集した(私たちのこの収集成果の一部は、民族音楽の国際的なCDコレクションの一つ〈JVCワールドサウンズ〉中に、約五〇タイトル収録され、市販されている)。(453頁)

その中でも、彼ら〔バリ島の人びと〕が超高周波音の脳に及ぼす効果を承知しており、それを巧みに利用してきたという推論をほとんど否認不可能にするひとつの材料として、バロン面の鈴について指摘したい〔バロン Barong:二人立ちの大型の獅子の仮面仮装演者〕。それは青銅や真鍮のインゴット(地金)を削りだして造った重く強固な鈴を十数個密集させたもので、超高周波成分が豊かな鋭い音響を盛大に発生させる。この鈴は獅子頭の内側に装備されているため観客にはその存在が見えず、その音も、ガムランやテクテカンが轟く祭りの庭にあっては獅子頭の振り手以外の何びとにもほとんど聴きとれない。(中略)つまり、この鈴はもっぱら振り手のために超高周波音を供給する仕掛け以外の何物でもなく、最も強力にそのトランス誘起効果が発揮される場所に音源を設置したことを意味する。(中略)この測定の結果、可聴域上限の二〇kHzを大きくこえ八〇kHzにおよぶ超高周波がきわめて豊富に含まれていることがわかった。さらに、バロンの演技の中でしばしば行われる木製の面の上下の歯を打ち合わせる所作を実行した場合には、鈴音と木を打ち合わせる音とが加算されて、スペクトルの上限は一〇〇kHzに近づいている。(471-472頁)

PCMで符号化されたCDの信号は、規格通り二二・〇五kHz以下の周波数領域に収まっている。ところが、LPの再生信号はそのように単純にはいかない。溝をトレースして電気信号に変換するカートリッジの周波数応答が悪ければ再生信号は二〇kHzにも達しない一方、優秀なカートリッジの中には一〇〇kHzをこえる応答を示すものさえある。(中略)次に、これらの中でもっとも高い周波数域まで応答を示したカートリッジを使って、『輪廻交響楽』二楽章の中でバリ島のガムランで使われる〈ゲントラック〉と呼ぶ鈴を使った部分のFFT高速フーリエ変換法(fast Fourier transform)55頁〕をとってみると、それは一〇〇kHzをこえていた。(479-480頁)

こうした状況の中で、アメリカにBGM専門の音楽ソフト供給会社ミューザック(Muzak)社が登場する。(中略)ちなみに、のちにLPレコードの規格となる当時もっとも収録効率が高かった三十三と三分の一回転ディスク方式も、ミューザック社に源を発している。(496-497頁)

彼〔マリ・シェーファー〕が『世界の調律』の中で「永遠の完全性を表象するもの」として浮かび上がらせたのは、秘教主義(esoterism)的な人びとの間で関心の高い、かの「天球の音楽」(music of the spheres ただし『世界の調律』の日本語訳では「天体の音楽」)に他ならない。特に彼は、この概念を、その起源となるピュタゴラスのそれに遡って設定している(なおシェーファーは、天球の音楽に触れるに当って、しばしばインド音楽の「アナーハタ」の概念をとり上げ、同質のものとして言及している)。(503頁)

これについては、まず、情報環境学からの〈地球生命における物質と情報との等価性モデル〉を援用して、私たちの摂取する物質に生存上なければならない〈必須栄養〉と、あってはならない〈毒物〉とが存在するように、私たちの受容する音情報にも、生存上なければならない〈必須情報〉としての音と、あってはならない〈侵害情報〉としての音とが存在するという考え方を導いた。ここで必須情報となる音のもつ構造こそ、〈脳にやさしい音環境〉の規範に他ならない。
 以上の認識のもとに、私たちは、環境の中に存在する音を
 一、〈必須音(essential sounds)〉すなわち「なければならない音(sounds that are indispensable for human beings)」
 二、〈効果音(functional sounds)〉すなわち「何らかのポジティブな効果を発揮しうる音(sounds that have positive effects on human beings)」
 三、〈侵害音(noxious sounds)〉すなわち「あってはならない音(sounds that are injurious to human beings)」
の三つのカテゴリーに類別して捉える枠組を設定した。(508頁)

なお、この全方位性を現実的に容易に実現するひとつの方策として、私たちは、〈フロント左〉〈フロント右〉〈リアー左〉〈リアー右〉〈センター上〉という五チャンネルで録音を行い、フロントとリアーのLRを二重らせん状に反転させながら縦横に連鎖させていく〈ダブル・ヘリカル・マトリックス方式〉と名付けた効果的な空間配位方法を開発している。(513頁)

 ここで最大の問題になるのが、熱帯雨林型の情報環境に固有の情報の高密度性、高複雑性に他ならない。それは、音については、可聴周波数帯域を数倍上廻る周波数帯域の広さと豊かなスペクトルのゆらぎ構造であり、光については、視力限界を果てしなく上廻る空間密度と多彩なフラクタル構造である。しかも私たち自身の実験から見出されたところからすると、驚くべきことに、音、光のどちらについても、その情報密度を人間に知覚可能な範囲にまで低下させると、知覚をこえる高密度状態におけるよりも受容者の脳の活性を歴然と低下させるのである。
 これらの事実は、私たちの脳機能の健常性は、意識と知覚によって認知できる範囲内の情報をもってしては保持しえないという驚くべき真相を告げる。つまり私たちの脳の活性は、意識とはるかに隔たり知覚さえも超えてその彼方に拡がる超高密度で複雑な、すなわちほとんど完全に非言語的な情報世界の存在によって初めて、健常に維持されることになる。この超高速大容量で代謝する情報世界には、すくなくとも直接的に、低速小容量の〈言語脳モジュール〉の活性が追随する余地はない。いい換えれば、このように知覚を超えて心身に強く働きかける〈ハイパーリアル・エフェクト〉は、ほぼ完全に非言語脳本体によって職掌されつつ、デカルト的言語脳機能の圏外に拡がっている。(533-534頁)

ここで従来まったく意識されていなかったにもかかわらずきわめて重要な問題になるのが、生態系が発信し私たちの脳が求める超高密度高複雑性光情報および音情報の有効射程距離が都市のサイズに比較してきわめて微小でしかない、という深刻な事実である。例えば「脳にやさしい」音情報として有効な一〇〇kHzをこえる複雑な空気振動では、高い周波数成分ほど空気中を伝播する途上でそのパワーが減衰しやすいという自然の法則によって、数メートルを飛ぶ間に無視できないレベルで肝心の超高周波成分が減弱し、効果を衰えさせる恐れがある。(中略)光信号は、理論的には伝達距離に応じた減衰は音とは比較にならないほど少ない。しかし、微細な構造とその複雑性がきわだって高いパターンでは、至近距離から送られたものでないと感覚的に刺戟となりうる信号構造を維持できない。(中略)
 このようなメカニズムが存在する以上、私たちは、厳密にいえば常に森の中にあり続け超高密度高複雑性情報の発信源と渾然一体となり続けることによってのみ、脳の健常な活性状態を維持できることになる。(541-542頁)

(〈脳にやさしい環境のグランド・デザイン〉の具体像:)一〇〇kHz(以上)の音情報+視野角〇・〇〇二度以下の超高密度のフラクタル構造性の情報(できればスキャニングやフレームによる不連続化を伴わない時間空間的に連続した画像)(543-544頁) 
音と文明―音の環境学ことはじめ ―

音と文明―音の環境学ことはじめ ―