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詩誌「びーぐる」第7号「詩の書き方」特集号


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 大阪の詩誌「びーぐる」第7号(澪標、2010年4月)

 

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 いちおう、まじめな意図をもって企画されたと思われる特集「面白クテ為ニナル 詩の書き方・実践篇」。

 しかし、実際にはそれが困難なことは詩人自身が一番よく知っているだろう。それでも、誠実にその問いに答えようと書いた文章がいくつかある。たとえば、野村喜和夫詩篇「デジャヴュ街道」メイキング>や廿楽順治<「うつす」を書く>など。

 久谷雉は「仮に一つ一つの言葉に書き手のプライヴェートな経験が反映されていることがあったとしても、それらは一篇の詩として組成された途端に、書き手自身の心の軌跡とはべつのものを映し出すスクリーンを織り上げてしまい得る」と、どきっとさせられることを書く(「〈夢〉からさめて」)。久谷の議論は詩の書き方というより詩論としてすこぶるおもしろい。<技法>と、詩が憧れる<夢>━━他者へ届けるべき<核>を言葉を通して表現すること━━とについて、最終的にはこう書く。

おそらく自由詩の<技法>は、人間を<夢>の中へ導くのではなく、<夢>をみる自身を意識させることによって、その外へとわずかに連れ出してゆく働きをするものと化している。そして、その移動の描く軌跡をとりあえず<詩>と呼ぶこともまた、可能になりつつあるのかもしれない。

評者のみるところ、これは一種のメタ・ポエトリだ。詩についての詩。

 それ以外に、<近代詩人に学ぶ「詩の書き方」>というコーナーには、「宮沢賢治に学ぶ詩の書き方 クロニクルとしての『春と修羅』」(細見和之)があり、さらに、<(冥界の)中原中也氏に訊く「詩の書き方」>(聞き手・四元康祐)などという、人を食った文章まである。

 「娑婆を去って今年で七十七年」になるという中原中也氏(娑婆にいた期間は1907年から1937年まで)がその境遇ならではの怪発言をする。「儂が胸のうちの感情を素朴に謳いあげたなどと思うたら大間違いじゃぞ。儂は手練手管の限りを尽くして詩を書いた。」と明かす。では、それはどんな手練手管なのか。氏の言葉を聞こう。

儂の詩の書き方にはみっつの基盤がある。短歌とダダと翻訳じゃ。短歌は十歳の頃から始めて、「もののあはれ」〔<名辞以前>に通じる世界認識〕と「歌」〔七五の調べを越えてわらべうたのリズムへ〕とを学んだ。〔略〕
 ダダは破壊と衝突の詩学であるが、儂ゃダダで和歌の閉じた世界に風穴をあけることができた。〔略〕
 翻訳はフランス象徴詩が中心じゃったが、我ながらこつこつよう訳した。〔略〕一番有難かったのは、翻訳という行為を通じて日本語を相対化し、しいては<詩>という概念を言語そのものから解放したことじゃ。

  これだけでも詩作者には参考になるが、驚かされるのは中原中也氏がその後の娑婆に登場した機械のことも知っていることだ。

こういう原理(OS)を骨の髄まで身体化(インストール)した上で、儂はそれをさまざまな語り口に適用(アプリケーション)した。即ち、放心の独語、情熱的な恋の囁き、敬虔なる祈りと懺悔、道化の戯言、西洋風メルヘン、わらべうた、狂気の錯乱、批評的アフォリズム愚痴悲嘆から超短編小説まで、数え上げればきりがない。

 ここに出てきた「OS」とは単なる思いつきでなく、「詩人が詩を書く基本原理」としてのオペレーティング・ソフトのことだと別のところで(四元康祐が)言っている。詩の技法としての「書き方」とは別に、もう少し深いレベルに存在するものである。

 最後に中原中也氏がその詩の構造について明かす。

先に儂は自分の詩の基本原理を短歌・ダダ・翻訳という三角形で表現したが、それだけでは平面に過ぎん。そこへ儂の宗教性・超越主義が一本の杭を射ち込む。結果、三角形は三角錐へと立ち上がる。三角錐はプリズムのごとく外界から差し込む光を分解して眼も鮮やかな虹を映し出す。

 評者がいちばん期待して読んだのは連載されている小池昌代「シ・カラ・エ・カラ・シ」(7)「詩と主題」だった。これは小池昌代の詩と絵が両方たのしめる。kiri というチーズが好きな人にはたまらない詩と絵ではないか。しかし、本当はこの詩の隠された主題は官能的なものかもしれない。

 詩に関心がある人にとっては隅々まで発見がある雑誌だ。いくつかの号は電子書籍化されている(honto や eBookJapan)。

 

季刊びーぐる 第7号(2010/0 特集:面白クテ為ニナル詩の書き方・実践篇

季刊びーぐる 第7号(2010/0 特集:面白クテ為ニナル詩の書き方・実践篇