泉鏡花「文章の音律」
近頃の小説の文章に、音律といふことが忽にされて居る、何うして忽處ではない、頭から文章の音律などは注意もしてゐないやうに思ふ。
鏡花は小説の文章について、こう述べ、音律がゆるがせにされていると主張する。1909年に発表された文章であるが、いまもりっぱに通用する。音律を大事にした文章とは、耳に聞かす文章のことをいう。近頃の小説の文章が眼にのみ訴えて、耳に聞かす文章でないことを嘆いているのである。具体例として、若い娘の言葉のことを取上げる。
文章の音律とは、今の小説では、十七八の娘だと地の文に書いてあるから、其會話が十七八だと思つて見るが、此れは眼に見せる文章で、十七八の娘とも何とも斷り書をしなくとも、讀んで十七八の娘だと聞えなければいけない。眼を閉いで會話を讀むのを聞くと、十七八の娘か六十幾歳の老婆か分らぬなどは心細い。
愉快な言いかたである。
他にもいろいろな例が挙げられているが、まとめると、書いていることと文体とが合っていないといけない、ということであろう。その際に肝要なのは、聴覚的に合っていることである。耳で聞いて、書いてある内容がすとんと得心できるような音の調子が出るべく、文章に注意をはらうということである。
考えてみると、このことは、多かれ少なかれ、文学一般に当てはまる。小説以外に、戯曲でも詩でも。
しかし、言うは易く、行うに難しとはこのことである。鏡花の作品で確かめてみたくなる。