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虹色のぶどうと虹との会話


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宮沢賢治「めくらぶどうと虹」

 

 宮沢賢治の「花鳥童話」のひとつ。後に、書き直して「マリヴロンと少女」という作品となる。

 両者はよく似ており、全く同じ表現も多い。

 けれども、根本的な違いもある。だれでも気づくのは、ぶどうと虹との会話が、後の改作では人間同士の会話になることだ。いわば劇化される。そのことと連動するのかどうか、文体が微妙に違う。文章の流れの息遣いが異なって感じられる。

 こちらのほうがはるかに読みやすい。理解しやすい。童話であることを意識したせいかもしれない。

 このぶどうはどうして虹に語りかけるのだろうか。虹をうやまうのだろうか。そのなぞを解くかぎは、実はこちらにしかない。

その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。

ここに、はっきりと、「めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました」と書いてある。この部分は「マリヴロンと少女」ではこうある。

その城あとのまん中の、小さな四っ角山の上に、めくらぶだうのやぶがあってその実がすっかり熟してゐる。

あらためて比べてみると、両者から受ける感じはかなり違う。前者は、ぶどう自身が虹のような実をつけていることから、虹に語りかけることが自然に感じられる。物語としてこれだけで完結した、充足した意味の重みが感じられる。後者は、ぶどうが熟していることしかわからず、しかも現在形で書かれ、お話というよりト書きのようだ。これから何か始まる感じがする。

 会話そのものの内容は同様なのに、どうして対話する者をこのように変えたのか。それは、会話のなかにこめられたものを、どうしたら最も効果的に表現できるかについて賢治が考え抜いたからにほかならない。

 その点でいえば、こちらは童話としてほとんど完成した形で読むことができるので、完成度は高い。一方、「マリヴロンと少女」は未完、あるいは不完全な形でしか伝わっておらず、大人向きの高遠な内容を含んでおり、むずかしいけれど、深いともいえる。

 両者を読み比べると興味深い。