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『白鯨』における'jealousy'の解釈がすべての議論の始まり


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巽 孝之 『「白鯨」 アメリカン・スタディーズ』みすず書房、2005)

 

 知的冒険の書。19-21世紀のアメリカ史、アメリカ文学、SF、核の時代の(文学的)想像力、ゴジラ等々に関心があれば知的興奮を覚える書。

 三回の講義形式で、アメリカ文学乃至世界文学の金字塔のひとつ、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』(1851)を論じたもので、非常に読みやすい。現代的な問題意識が論考の隅々に横溢しており、無味乾燥な講義からは最も遠いものと謂える。既に同小説を知悉している人にとっても新たな発見があるだろう。

 さまざまの知的刺激が鏤められているが、中でも最大のポイントは 'jealousy' の解釈にある。極論すれば、本書のすべての議論の根本はこの語の解釈から発していると言ってもよい。

 え、そんな馬鹿な。「ジェラシー」なんて誰でも知ってる単語では、との声が上がるだろう。確かに、『広辞苑』は「ジェラシー」について、「ねたみ。嫉妬(しっと)。やきもち。」と書く。日本語の「ジェラシー」はその意味でしか使われない。けれども、英語の 'jealousy' は、聖書的文脈が加わる場合には用心しなければならない。  『白鯨』第36章を巽さんは次のように訳す。

『白鯨』第36章やつの内部にこそ、とてつもない力がみなぎり、そこには計り知れぬ悪意がひそんでいるのがわかる。その計り知れぬものこそ、わしが憎んでやまぬものだ。この白鯨が計り知れぬしろものの手先であろうが正体であろうが、わしは憎んで憎み続ける。〔中略〕生きとし生けるものすべてに相手の不実を許さぬ気持ち(jealousy)が染み渡っているからこそ、この世にはフェアプレイ(a sort of fair play)が成り立っているのだ。(93頁)

 つまり、ここで 'jealousy' は「相手の不実を許さぬ気持ち」と訳されている。これが復讐の根源にある。『白鯨』が復讐の文学といわれ、アメリカ史のさまざまな局面における復讐の縮図がここに見られること、その根源はこの一語にあるといっても過言ではない。これが旧約聖書における神の熱情(愛する者の偶像崇拝を嫌い、不信仰や背信を許さぬ愛)の反映であることから、米国の復讐には宗教的情熱が伴うことになる。最大の英語辞書 OED の 4c に掲げる意味である。その語義は、例えば、欽定訳聖書ヨシュア記24章19節に現れる。〔この箇所のヘブライ語原文では 'jealous' に相当する語として qanno が使われているが、イスラエルの民の偶像崇拝を許さぬ神の立場は、妻の(霊的)姦淫を許さぬ夫に喩えられる。この熱い感情は、このように応報に向かう場合もあれば、恩寵により救済へと向かう場合もある。教会がキリストの花嫁となるのは後者のケースである。〕

 巽さんはこう書く。

エイハブ=「嫉妬する神」したがって、ここでのエイハブは、旧約聖書における「嫉妬する神」の立場を代わって占めているのだ、と考えてもさしつかえありません。〔中略〕これはのちの西欧思想史にかんがみるなら、エマソンの超越主義哲学の影響を受けたニーチェの「反キリスト」に近い立場を先取りしたものと、みなしていいでしょう。そして、まさにこのような旧約聖書経由の「嫉妬する神」の論理こそは、資本主義の大義名分にさからってもエイハブ船長の「復讐」転じては以後のアメリカの「報復攻撃」を正当化していく論理なのです。

(94頁)  このような観点は巽さんだけでなく、例えば故サイードも、同時多発テロ後のインタビューでこう話している。

サイード談ウサマ・ビン・ラディンはいまやモビィ・ディックとして世界中の悪の象徴にされていますが、この男に一種の神話的な地位を与えることは、かえって彼のゲームにはまりこんでしまうことになるのじゃないかと、ぼくには思われます。むしろ、この男から宗教的な要素を剥ぎ取ることが必要だと思います。(98頁。引用元は『戦争とプロパガンダ』)

 このような議論は本書の第三講義において深化されてゆく。

 本書にはないが、'jealousy' について、もう一つ注意すべき点をあげよう。これは上に挙げたものとは違う意味の 'jealousy' だけれども。死につつある女性を取囲む人々の中に 'jealousy' が湧起こるという表現が、ある詩に出てくる。

Emily Dickinson 1100A Jealousy for Her arose So nearly infinite

 この 'jealousy' は通常、天国へゆける死者に対する、生の苦しみを味わわねばならぬ者たちからの妬みと解される。だが、この死にゆく者の生きようとする権利をしっかりと守ることと、解することも可能である。つまり、根本的には 'jealous' というのは何か大事なものの保守を「熱心に求める」(zealous)ことであって、それが自己中に展開されれば嫉妬ともなろうが、それを相手について求めれば、その人のよき状態を熱心に守ろうとする配慮となる。英語の原義としては両方があり得ることに留意する必要がある。

 本書でもう一つ注目すべき点は SF の文脈で捉える『白鯨』である。この点に少しだけ触れる。「人類家畜化テーマの傑作」と呼ばれるアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』(1953)は、「じつは『白鯨』へのオマージュを含んでいる」という(138頁)。さらに、スタニスワフ・レムの『ソラリス』(1961)は「20世紀における新たな『白鯨』の試み」だとも(141頁)。巽さんはこの間の事情についてこう書く。

フロンティア・スピリット19世紀のフロンティア・スピリットが『白鯨』の描き出す捕鯨の航海に象徴されていたとすれば、20世紀のフロンティア・スピリットはクラークやレム以降の作品が描き出す宇宙への航海の中に夢見られていたのです。(143-144頁)

 さらに、映画版『白鯨』(1956)をめぐる巽さんの見解は本書の中で最も印象に残るものの一つである。

映画版『白鯨』その意味において、わたしはブラッドベリ&ヒューストンの映画版『白鯨』が描き出した恐るべきモビイ・ディックの勇姿には、原子怪獣と共振するゴジラの肖像が確実に刷り込まれているのではないかと考えるのです。(148頁)

 以上、瞥見したように、本書は批評文学としてめちゃくちゃ面白い本であるが、加えて、巻頭には巽さんによる第1章および第135章の渾身の翻訳が添えられている。ただし、編集上の問題点として、その新訳に酷い誤植が残されていることは指摘しておかねばならない。機会があれば改めていただきたい。最後に、その誤植箇所を指摘しておく。

誤植箇所「かくしてスターバックはまんなかの檣冠にところではためく → 檣竿の [?]」(27頁) 「おまえらはほからのボートの連中とはちがって → ほかの」(30頁) 「そしてととうエイハブが本船のかたわらを滑走し → とうとう」(31頁) 「地獄のからでもおまえを刺し貫いてやる → 地獄からでも [?]」(39頁)

 

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