大江 健三郎他『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(集英社、2007)
「正教の作家」ドストエフスキーを考える際に大いに手がかりになる。
晩年の短篇「キリストのヨルカに召された少年」について正教司祭ステファン内田圭一師が「ドストエフスキィの作品世界において最も恐ろしい罪はこどもに対する罪である」、「一方で愛すべき登場人物はこども達の良き友人として書かれています」と書く。その根拠として聖マタイによる福音書18章が挙げられた。
では『カラマーゾフの兄弟』についてはどうか。その作品の「ゾシマ長老の言説を中心に、ドストエフスキー文学と正教の繋がり」を考察したのがこの論文だ。結論からいうと、そういう観点に関心がある人がまず第一に参照すべき重要な洞察を含む。本格的な論考でありながら、一般読者向けのドストエフスキー解説書に収められていることもあり、わずか10ページに簡潔にまとめられている。
論点のうち重要なもののみを概観する。まず、なぜゾシマの言説なのか。これは、ドストエフスキー自身が<イワンの「大審問官伝説」を含む第五編「プロとコントラ」と、その「瀆神に対する堂々たる反駁」であるゾシマ長老を中心とした第六編「ロシアの修道僧」を、「小説のクライマックス」と呼んでいる>(編集者リュビーモフに宛てた書簡〔1879年5月10日付〕)ことを尊重するからだ。
つぎに、「全ての被造物、生きとし生けるものは、葉っぱの一枚に至るまで言(ロゴス)を志向」するというゾシマの言葉に、汎神論でなく、汎在神論(パンエンテイズム [panentheism])を見てとる。さらに、この傾向が、<東方キリスト教の修道士が目指す究極の神秘、「神化」とも関係する>という重要な指摘をおこなう。
それに関連して、「被造物への愛を最も鮮やかに表した」六世紀の教父、シリアのイサクと、「神化を目指して一心に身も心も祈りに献げるヘシュカスム〔静寂主義〕の、ロシアにおける実践の書『無名巡礼者の手記』」とが引用される。
ここで二つほど覚書を記すと、このような汎在神論は、アイルランドの霊性の一特徴であるニャルト [neart] に酷似する。また、『無名巡礼者の手記』の日本語訳は現在入手困難だが、英訳なら The Way of a Pilgrim and the Pilgrim Continues his Way の題で容易に入手できる(R. M. French 訳)。
つぎに、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(聖ヨハネ福音書12章)がゾシマの言葉に二度引用されること、この言葉に「『カラマーゾフの兄弟』の主要なメッセージが集約されていること」を指摘する。
さらに、この言葉に窺える不死や復活のテーマがドストエフスキーに芽生えたのが『カラマーゾフの兄弟』執筆よりかなり以前のことであること(「最初の結婚のマリヤ夫人が亡くなった直後のメモ(1864年4月16日)」)、その後、「不死や復活について真剣に考察していたフョードロフの思想に出会うことになったこと」を指摘する。
「直接的な形でフョードロフの言葉が反映しているのは、〔『カラマーゾフの兄弟』の〕創作ノートにあるヨブをめぐる言葉」であるとして、ヨブ記に対する考察がある。ゾシマがヨブ記に感動するわけについてこう述べる。
ゾシマの感動は、ヨブの義(ただ)しさだけに向けられたものではない。ゾシマは、この世の生を支えているのは、「ただ自分が神秘的な他の世界と触れているという感覚のみである」と語る人物である。それゆえ、ヨブ記にも、地上の者が永遠の真理と触れ合う神秘の物語として感動を覚える
のであると。
「当時のロシアでは、ヨブ記は、復活願望の書としても読まれていたらしい」ことを指摘し、その根拠として「『カラマーゾフの兄弟』執筆(1878-80年)」当時の『聖書辞典』(1891年、モスクワで刊行)を挙げる。
最後に、これが最重要の指摘であると思われるが、リーチノスチと全一的交わりについて述べる。
ゾシマの兄マルケルが「小鳥にさえ赦しを請うたことの意味」をゾシマはこう説明する。
「すべては大海原のようなもので、流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、それは世界の別の果てまで響くからである」
と。評者はこのくだりに、粟津則雄の『精神の対位法』を想い出して戦慄した。
この繋がりを説明するために、安岡治子はソロヴィヨフの発言に注目する。恐らくここが本論の核である。ソロヴィヨフは
「『カラマーゾフの兄弟』の中心理念は、ポジティヴな社会的理想としての教会であった」
と述べる。ここでの「教会」とは「キリスト教精神に基づく自由な全人的統合」の意と安岡は説明する。
この理念をさらに掘下げるため、安岡はソロヴィヨフの「それぞれの存在は、全ての他者によって補われる」(ソロヴィヨフの博士論文『抽象的原理批判』)を引用し、それと呼応するものとして、「正教におけるリーチノスチという概念の特殊性」を挙げる。
このリーチノスチ(「人格、個性、個人」)について、ロスキーの『東方教会神秘神学』を引用し、さらに、エヴドキーモフの『正教』を引用する。
このあたりの考察で興味深いのは、ドストエフスキーの前述の1864年のメモにあるネガティヴともとれる側面をポジティヴに開いていることだ。ソロヴィヨフの考えをエヴドキーモフの説明により展開させて、次のように明快にまとめる。
リーチノスチとは自我を打ち砕くことによって創造されるものだが、それは自分自身からの解放=究極の自由の獲得とも重なるものだというわけである。そしてこれこそが、ゾシマが語る修道僧の生きる道であろう。
この見解によって開かれる「全被造物への強烈な隣人愛・連帯感という水平の拡がり」というヴィジョンは感動的である。
「ペレストロイカからソ連崩壊以後」のロシアで「イデオロギー的な規制がなくなり、ドストエフスキーと宗教(略)といったテーマも自由に論じられるようになった」(沼野充義)ことの幸せをかみしめる。