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ケルトの死生観に関する論集


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中央大学人文科学研究所 編『ケルト―生と死の変容』(中央大学人文科学研究所 中央大学人文科学研究所研究叢書、1996)



 ケルトの死生の問題をあつかう論文を6本収めた論集。

  • 松村賢一「異界と海界の彼方」
  • 盛節子「アイルランド修道院文化と死生観−救いと巡礼」
  • 木村正俊「『マビノーギ』にみられる「生」と「死」」
  • 谷本誠剛「物語の構造と力−『マビノーギ』第四話を読む」
  • 小菅奎申「クロフターの生活誌−アラステア・マクリーン(『アルドナムルハンの日は暮れて−あるクロフター一家の黄昏』に寄せて」)
  • 野崎守英「移り動くことと振り返ることと−ケルト遠望(2)」

の6本である。ここでは、小菅奎申の序言「ケルトの方へ−序にかえて」についてふれたい。本書のテーマをするどく抉る面があるからである。

 小菅奎申の序言はいきなり次の文章ではじまる。

他界の存在などほとんどの人が信じていないのに、「〜は他界しました。」という表現は残っている。


これを読んでどきっとした人にはたぶんこの本は向いているだろう。

 「〜は他界しました」は「〜は死にました」でも客観的情報としては変わりないと普通には考えられているが、本当にそうか。その点をこの序言は問題にする。そのひっかかる感じをこう表現する。

「他界した」は「死んだ」の代替物で、レトリカルな表現であると言われたら、そうかもしれないと思う。にもかかわらず、疑いは残るのだ。〔略〕死んでしまえばそれっきり、というふうでなくするためには、「他界した」と言い続けなくてはならないのではないか、と。親しい人たちの死は、死んだということとその意味とが渾然一体としており、一見はっきりしている「事実」情報だけに切り縮めることをためらわせるのであろうか。


 この小菅の論じるスコットランドの作家アラステア・マクリーン論は日本ではめずらしい貴重な論文である(Alasdair Maclean (1926–1994): Night Falls on Ardnamurchan: The Twilight of a Crofting Family (1984))。他に、ウェールズの『マビノーギ』を扱う2本や、ケルトの異界を代表する『ブランの航海』などを扱う松村論文など。

 小菅論文に現れる「クロフター」について少し説明をくわえる。本書によれば、クロフトは小さな保有地のこと。これを保有する者がクロフター。クロフターが家族と共に付設の住宅に住んで牧畜・農業を営むことをクロフティングという。なお、アルドナムルハンはスコットランド本土の最西端の地名である。その突端に位置するサナ(Sanna)地区がマクリーン作品の舞台である。マクリーンは「サナの詩人」ともいわれる。スコットランド高地、いわゆるハイランドに関心がある人にはおもしろいかもしれない。

 野崎論文は「ケルト遠望(2)」とついているが、その1(「アラン島の世界−ケルト遠望」)は『ケルト 伝統と民俗の想像力』(中央大学人文科学研究所研究叢書8)に収められている。ケルトゲルマニア、ローマの対照をはじめ、ケルト的感性についても興味深い指摘をおこなう。たとえば、旅を長く続けたケルト民族がその感性のうちに、「遠くにあるなにものかへの、性格づけが定まらない hospitality」を培ったのではないかと書く(292頁)。

 それに関して人間と妖精との関わりを描く民話(パディ・オガラという男の話)の分析がおもしろい。パディがある女に親切にしてやったところ、お礼に1シリングの銀貨を渡され、私のために乾杯しながら酒を飲んでほしいといわれる。その後、パディはそのお金で煙草を買ったり、酒場で飲んだりするが、受取る釣り銭の中に必ず女のくれた1シリング銀貨がある。2、3年してパディは心配になり、神父に相談する。神父は自分の十字架を外してパディの首にかけ、そのシリング銀貨の上で十字を切ると銀貨は水の雫のように消えてしまった〔ヘンリー・ブラッシー『アイルランドの民話』青土社、1993、256-258頁〕。〔hospitality の語について野崎は特に説明しないが一般に「厚遇」「旅行者や客を親切にもてなすこと」をさす。この民話でパディが女にしめした親切がそれに相当する。〕

 これに対する分析はこうである。「金銭の秩序を擦り抜けるかたちで働く”あの世”的な hospitality に対抗するあり方をとるものとして、神父━━キリスト教は、人間世界を筋づけ、秩序づける役割をする方向で事に参与しているということなのだ。」(294-295頁)

 妖精と人間との関わりにおいてキリスト教の司祭が参与する事例は多くの妖精譚で出てくる。それに対するひとつの解釈として興味深い。

 ただし、この分析は不完全である。なぜなら、キリスト教は「この世」を棄てることを信仰の基とするからである。そのうえで、神の支配する王国━━天国━━をめざす。つまり、司祭の役割は、妖精の異教的なあの世でなく、キリスト教の神のあの世へと人間を導くことにある。