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「石の夢」が時空を超えて


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ブノワ・ペータース=作、フランソワ・スクイテン=画『闇の国々Les Cités Obscures小学館集英社プロダクション、2011)



 第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞作。フランス・ベルギーのコミック(バンド・デシネ[BD、フランス語圏のマンガのこと])。

 BDでは往々にして(緻密な)絵のほうに重点が置かれるといい、確かに1ページに1週間かけるというスクイテンの絵が構築する世界は迫力があるが、小説家ペータースの紡ぎ出す物語もそれに劣らぬ魅力がある。二人は中学のころから共同作業をしてきた仲だけあって息はぴったりで、彼らが作り上げる異世界は非常に存在感がある。

 謎の都市群を描くこの『闇の国々』シリーズはこれまでに正編12冊、番外編12冊の計24冊が出ているが、日本版第1巻にはそのうち3篇を収める。


 『狂騒のユルビカンドLa fièvre d'Urbicande(1985)は主人公の建築家ロビックのオフィスに持ち込まれた謎の発掘品の立方体が増殖をつづけ、しまいには都市全体を覆うようになる話。この建築家はユルビカンドという都市の設計者として、街を二分する川に架かる3番目の橋が建設されないことに憤慨している。当局とそのことで議論している最中に立方体が川を越えるほどに増殖したことから、彼がその立方体を発明したのではないかと疑われてしまう。この話はあるいは明川哲也の短篇「箱のはなし」(管啓次郎野崎歓編『ろうそくの炎がささやく言葉』所収)に影響を与えたのではないかと思われるが、本作では箱というよりネットワーク(réseau)の性格のほうが強い(本書では「網状組織」)。


 『La Tour(1987)は塔の修復士ジョヴァンニ・バッティスタ(この名はピラネージへのオマージュ)の物語。修復の持ち場にいっこうに巡察使が来ないので業を煮やし、下降を始めるが、途中でパラシュートで空路をとったところ、風向きの変化で上昇してしまい、元の持ち場より上層で墜落し、エリアスの家に運ばれる。エリアスは塔の秘密保持者と自称する。パラケルススを想わせる人物だ。彼の蔵書に『闇の国々Obscurae Civitates という本がある。さらにエリアスは塔にからむ絵を何枚も所蔵しており、それを通してもジョヴァンニは想念をかきたてられる。塔に異変が起きているのが心配だとエリアスは語り、ジョヴァンニのほうが先にそのわけを理解するだろうと言う。果たしてジョヴァンニはそれを知ることができるのか。

 本作品は副題を「巨大な塔を往還せし男の真実の物語」という。この作品を読んだらもう二度とおなじ目ではブリューゲル(のバベルの塔)は見られないだろう。 ブリューゲルがたった一枚の絵で描いたものを長く瞑想した作者たちは、その瞑想の成果を語るのに7、8コマで構成された100ページの紙幅が必要だった。それは同時に十歳でシェークスピア全作品を読破したオーソン・ウェルズへのオマージュでもある。




 『傾いた少女L'enfant penchée(1996)は複数のストーリーが同時に進行する。ただし、時代も場所も異なる。中心となるのはある時から体が傾いてしまった少女メリー・フォン・ラッテンの数奇な物語だ。もう一つは謎の天体を追跡する科学者アクセル・ワッペンドルフの物語。以上は「闇の国々」の世界での、「塔建設後の暦(AT [Après la Tour])」で8世紀の話。三つ目は「我々の世界」フランス19世紀末の画家オーギュスタン・デゾンブルの物語で、マンガでなく写真と文章とで構成される。この三つは互いに全く無関係に見えるが、やがて交差する。
〔右: L'enfant penchée, 1st edition〕


 上記のメディア芸術祭マンガ部門大賞の贈賞理由に<日本マンガは世界に誇る文化だと打ち出すならば、世界のマンガのレベルを知る必要があるだろう。本作はそれを知るにふさわしい作品。文化の違いに触れる喜びと、面白い作品は文化の違いを超えて共有できるという喜び、本作はそれを同時に感じさせてくれる稀にみる作品である。>とある。全くその通りだ。

 本書の価格は一見すると高いように見えるが、実際に手に取り、内容を知ると、この価格でも安いと思える。翻訳は丁寧であり、絵の中の看板なども訳注で説明してある。原正人の『狂騒のユルビカンド』と『塔』における翻訳の文体はこの水晶のように硬質な叙事詩的世界、また霧がかかったような混沌とした世界によく合っている。ただし、143ページで聖霊を精霊と書くのはよくある誤りだが全くいただけない。近未来、中世、古代、異世界の建築の狂騒と荒廃など、あらゆる要素が精密な絵と迷宮的な文章とでつづられてゆく。

 一方、古永真一の『傾いた少女』における翻訳の文体は対照的だ。SFや幻想文学などの雰囲気がより濃厚にただよう。この三篇を読むと、「闇の国々」の謎はむしろ深まるが、他のどこにもない世界として惹きつけられる。ペータースによれば、通常の「明るい世界」と「闇の世界」とを行き来するテーマにはずっと興味があったということだ。その間には中継ゾーンがある。そこを描く瞬間にはぞくぞくさせられる。

 ペータースは、創作に際し、そこら中にあるものから糧を得ている。そうして別のものを、独創的でこの上なく自分自身であるものを生み出している。その不思議な過程を表す言葉をポール・ヴァレリーから借りて「ライオンは同化された羊からできている」という。素晴らしい言葉だ。