ハンス・アンデルセンの詩人の魂
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もとより、全集の書評など簡単にできるものではない。収められた作品のうちいくつかは、すでに小山清『日々の麺麭・風貌』に書いた。ここでは本全集でもっとも読みたかった次の作品について、自分の覚書をかねて記す。
「聖アンデルセン」
ハンスは母に宛てて、母が編んでくれた寝間帽子のおかげでよく眠れると、こう書く。「それはいろんな意味で私のオーレ・ルゴイユ(眠りの精)なのです。」(17頁) 母が自分のために夜なべをして編んでくれるのに感謝しつつ、「夜は早くお休みなさるように。こゝのところ私も早寝の習慣をつけてをります。」と書く(17-18頁)。
ハンスはそのうち月から聞いた話を纏めて小型の好い本を編む計画を打ち明ける。「私はその本に『絵なき絵本』といふ名をつけて、月と私の友情を記念するよいものにしたいと思つてゐます。」(19頁)
ハンスは聖書を引きながら生き方を述べる。「私達は自ら卑屈になることも、人を疑ぐることもいらないのですね。切に求めてゆくところに生活はあるのですね。」(19頁)
しかし、ことイエスのことについてさかしらな口をきくと、すぐに母の叱る顔が見える。「お前がどんなにおませな風をして見せたつて、ハンス・アンデルセンが子供であることは、このお母さんがちやんと呑み込んでゐますよ。」(20頁)
ハンスは尊敬する詩人インゲマンについてこう書く。「お母さん、その人の傍にゐるだけで自分といふものが幾分か善良になるやうに思ふ、さういふ人がこの世の中に本当にゐるのですね。インゲマンといふ人はさういふ人なのです。」(21頁)
ハンスは最も好きな作家ウェッセルについてこう書く。「お母さん、ウェッセルこそはあなたのハンスが、一番好きな作家なのです。私の心に一番よく似てゐる心を持ってゐる人。彼の綴る一行一行はそのまゝ私の心です。」(24頁)
ハンスの蔵書は多くないが、好きなものに親しみたいと思っており、こう書く。「また人といふものは、愛読の書に向ふ時ほど自分を取りかへしたやうな気のすることはありますまい。」(24頁)
ハンスは子供が好きな点でイエスに似ていると自覚している。その事情をこう書く。「『霊界通信』といふ本に私の評判が出てゐて、私のことを『聖アンデルセン』などと云つてあつたのです。『聖アンデルセン』といふのは『聖ドン・キホーテ』といふほどの揶揄(ほめ)言葉です。」(26頁)あとで、こう云ったのはヘルツであること、ヘルツのみならず多くの人がアンデルセンを心の底で贔屓にしていることが判明する。
子供へのハンスの思いは、童話に対する次のような言葉に結びつく。
しかし私もなんて勿体振つた奴でせう。誰がかう云つた、彼がなんと云つたなどと云ふよりも、寧ろ自分から率直に云へばいゝのにねえ。「僕はイエス様が子供が好きなやうに、子供が好きなのだ。」と。子供の生活に触れては、また自分の性質を省みては、孤独な心の底から童話に対する一すぢの道は秘められてゐることでせう。私もまた自分の生れつきを生かさうと思ひます。童話の世界に私らしいものを導入したいと思つてゐます。(26頁)
本作品は、母への書簡の形をとった一種の自伝文学のごときものかもしれない。もちろん、書いているのはアンデルセン本人ではなく、その心を汲んだ小山なのだけれども。段落というものがほとんどなく、えんえんと自分のことを語るだけなのだが、心が澄みわたるような心地がする。それは小山がいかに深くアンデルセンの創作の淵源に分け入っているかと無縁ではない。
本全集には『幸福論』(1955)が収められており、その中に「アンデルセンによせて」という文章がある。「聖アンデルセン」を理解するのに助けになる。
本全集は全部で602頁あり、やや小さめの字の二段組でびっしり作品が詰まっている。寡作といわれる小山清であるが、これだけあれば充実している。編集者の名前は記されていない。