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あまりに素晴らしく、あまりに貴重な本


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小山清『日々の麺麭・風貌』(講談社文芸文庫、2005)



〔筑摩書房刊『小山清全集』(増補新装版、1999年11月)を底本とし、新漢字新かなづかいに改めた小山清精選集〕




 小説「落穂拾い」(1952)において、語り手の「僕」は「嘘の日記」を書く。二十年前のことを綴る「〔神楽坂の似顔絵かきは〕微醺(びくん=微酔)をおびていることもあった。」(8頁)を読めば、めれんとはいかないが、ほのかに酒のかおりがしてくるような心地がする。




 「僕」は自炊の生活をしているのだが、薪水の労は億劫ではないと、こう書く。

たとえば母親から慰められずに置き去りにされた子供が独りで玩具を弄んでいるうちにいつか涙が乾いてくるように、米を磨いだり菜を刻んだりしていると、僕の気持ちもようやく紛れてくる。僕はうどんが煮える間を、米が炊ける間を大抵いつも詩集を繙く。小説なんかよりはこの方が勝手だから。(14頁)


 ところが、「僕」は別のことが億劫である。

先年歿したDという小説家は、自分には訪問(ヴィジット)の能力がないと零(こぼ)していたが、僕などもそのお仲間らしい。第一に他人の家の門口の戸をわが手であけるということが既に億劫だ。彼女の店は商売柄客に対していつも門戸が開放してあるのでつい入りやすいから、僕はときどき立寄って店の営業妨害にならない程度に話しをしてくる。(18頁)


この箇所にはにやりとせずにはいられない。もちろん小山清太宰治の門人であり友人である。「彼女」とは新制高校を卒業して古本屋「緑陰書房」を経営する少女であり、『ビブリオ古書堂』の栞子を彷彿させる。

 この小説は特に変わったこととか事件が起きるわけでもなく、以上のような身の周りのことが綴られており、著者の言葉を借りれば「日録であり、また交友録」である。この味わいは忘れ得ない余韻を残す。

 「桜林」(1951)に実在した都新聞のことが出てくる。<ちょうど「大菩薩峠」が連載されていて、私の家でもみんな愛読していた。おそらく新聞の読物としては、これほど作中人物が読者に馴染深く親しまれた小説も少ないのではないだろうか。>(65頁)とあり、興味深い。また、読書習慣については<都新聞にはほかに誰が担当していたのかは知らないが、「見たり聞いたり」という欄があって、これは祖母が毎日楽しみにしていて、長火鉢の傍で老眼鏡をかけて音読していたのを覚えている。>ともあり、その頃、音読する人がいたことが分る。

 「おじさんの話」(1953)では予測を裏切る文体の天才であることを示す一節がある。「おじさん」が入った床屋の描写である。

その店は小汚く、古風な感じで、肩がこらなかった。私は壁に貼ってあるポスターの中の、豊満な体をした支那美人に、うっかり見とれたりした。(105頁)


一句ごとに予測を裏切られ、文末に達すれば賛嘆を禁じ得ない文章である。カウリスマキの映画を観ているかのようにこの床屋の光景が目に浮かぶ。

 「聖家族」は静謐のなかに時空を超えたような文体。ヨセフが聖書(レビ記19章9-10節)を繙く際の描写は、聖家族の三人の頭上の毫光が輝き出でるかのように思われる。

 小説はその他に、「日々の麺麭(パン)」「朴歯の下駄」「栞」「老人と鳩」「老人と孤独な娘」の5篇。また、小論として、文人について書いた「風貌――太宰治のこと」「井伏鱒二によせて」の2篇。

 「風貌――太宰治のこと」には、初めて太宰宅に原稿を持って行った日のことから、「ダザイオサムシンダ」の電報を受取る日のことまでが綴られている。太宰は「聊斎志異」の原文(田中貢太郎訳の書に所収)を読んで翻案(「黄英」に取材した「清貧譚」、のちに「新潮」に発表)をしていたことも書かれている。

 太宰に進呈するつもりで鷲(おおとり)神社の酉の市でお札を買ったが、行く途中で「気がさして捨ててしまった」ことも綴られているが、「気がさす」とは何か。どこに引っかかったのだろう。

 太宰の小山評は「君は心理の方は相当行き届いているけれど、描写の伴わぬ恨みがある。君が描写の技巧をマスターしたら、鬼に鉄棒だ。」(187頁)というもので、さらに、印象の正確を期することが肝腎だとも云ったという。両者の文学観や作風の違いが垣間見える。

 太宰の佐藤春夫評として「僕は佐藤さんに対しては、地震加藤のつもりでいるんだ。」(191頁)と云ったとある。この評は佐藤は知らなかったろう。

 小山が「太宰さんは僕たちにとって Last man だと云ったら、田中君は Last one だと訂正した。」(192頁)との逸話があるが、これは「太宰さんは傘張剣法だから好きさ。」と云った田中秀光のことである。太宰には小山は「これから、田中と信じあって行け。」と云われた。また、太宰は小山に「『教育勅語』に友達の間柄のことを、どう云ってあると思う? 朋友相信じなんだ。」と云った。

 昭和20年の3月10日に竜泉寺町で罹災した小山は三鷹の太宰宅に駈込み訴えをする。4月2日未明に三鷹界隈に米機の来襲があり、「偶々来合わせた田中秀光君と三人で防空壕に避難して命拾いをした。」(195頁)先に疎開していた妻子のいる甲府へ太宰も行ってはどうかと小山が提案すると太宰は賛成した。甲府水門町の疎開先には甲府市外の甲運村に疎開していた井伏が訪ねてくることもあった。井伏と会った客間(富士山噴火口の写真が額になっている)は恐らく太宰の短篇小説「富嶽百景」の見合いの場面に描かれたそれだと小山は推測する。

 井伏と太宰の関係について小山はこう約言する。

桜桃忌の席上で井伏さんは云った。「私は太宰には情熱をかけました。」私は井伏さんのほかに太宰治の師のいないことを確信している。(199頁)


 「井伏鱒二によせて」でも井伏と太宰の比較が出てくる。井伏の「点滴」によると、二人は水道栓から垂れる雫の割合で対立していたらしい。太宰は分速40滴、井伏は分速15滴を理想とした。「ちゃぽ、ちゃぽ、ちゃぽ」のせわしない音に対し、「ちょっぽん、ちょっぽん、ちょっぽん」のゆっくりした音。太宰は井伏を「置いてけぼりにして、駈け足でこの世からさよならしてしまった。」(202頁)青空文庫井伏鱒二がないのを訝る向きもあろうが井伏は1993年に95歳で他界している。

 二人の最初の創作集について、小山は井伏の「夜ふけと梅の花」のほうを太宰の「晩年」と比べて「及び難いものを感ずる」と記す。後者の「でんでん太鼓のような美しさ」に対し、前者の「明るさと暗さ」を評価する。前者につきこう書く。

これは作者がその心のくらさを追求した文章である。夢は五臓の疲れというが、おそらく読者もそういう夢を見たことがあるだろうが、そういう夢にこの作品が酷似していることに気がつくだろう。(207頁)


 本文庫版には川西正明による13頁分の解説が附いている。この解説は『小山清全集』にはないもので貴重である。小山清の小説は全部で43篇であるとのことである。すべて短篇。アイルランド人かスコットランド人が間違って日本に生れたような人だ。この解説によれば、彼の実母は「吉原の芸者」でキリスト教徒であった。父は盲目で義太夫をやる人であった。関東大震災(大正12〔1923〕年)で被災したあと、賀川豊彦の影響でキリスト教に接近し、昭和3(1928)年6月、戸山教会(東京都新宿区、のちに信濃町教会と改称)で高倉徳太郎牧師より受洗する。小山清は明治44(1911)年10月4日の生れだが、同日生れのミレーのことが「落穂拾い」に出てくる。

 さらに、田中良彦編の年譜と著書目録もそなわっている。この年譜は全集巻末のそれよりもよほど詳しい。これによると、小山清の両親は富士見町教会(東京都千代田区)会員。小山自身は1930年ころより教会から遠のく。

〔本書(2005)を底本とし、『小山清全集』(1987年11月、筑摩書店刊)を適宜参照した版が『日日の麺麭/風貌 小山清作品集』(講談社文芸文庫、2014年7月)として刊行されている。〕