〔蔵出し記事 20040729〕
声楽家の藍川由美さんの発言を以下、引用する(産経新聞2004年7月29日付朝刊)。
これまで私は教科書によって歌詞や音符が異なるのはおかしいと指摘してきた。しかし、歌をとかく個人的な思いと結びつけて語りたがる日本人にとって、教科書の内容や一音符にまで踏み込んだ論議は無粋にうつるらしい。音や歌詞が少々違っていたって構わないじゃないか、との意見をよく耳にする。
だが、教科書によって歌詞や音符が異なるのは、病院がカルテを取り違えたり、設計図を無視して工事を行うようなもの。
〔中略〕
『浜辺の歌』の歌詞「風よ音よ」は、小・中学校両方の教科書で「風の音よ」となっている。
さらに気がかりなのは、文部省が学校教育に音楽を取り入れて以来、歌詞の発音指導を行っていないことだ。教科書はあくまでも書き言葉。『故郷』や『椰子(やし)の実』の「かえらん」の末尾はMなのかNなのか。『荒城の月』の「歌ふ」は「うとう」なのか「うたう」なのか。発音を徹底すべきである。
表記と発音の不一致は日本語に限ったことではないし、歌詞を見て瞬間的に正しい発音で歌うのはどんな言語でも難しい。中でも平仮名だけで書かれた歌詞はやっかい。某大学で『冬の夜』を指導した際、留学生に「ともしび近くきぬぬうハハハ(母は)」と歌われて衝撃を受けた。かくいう私も「は(葉)は」を初見で「ハハ」と歌ったことがあったっけ。
上に書かれた傾向は日本人に限らない。アイルランドの伝承詩歌についても、世界中の出版社や演唱者や愛好者のなかに同様の傾向が見られる。「伝承歌なのだから、音や歌詞が少々違っていたって構わないじゃないか」というわけだ。
だが、そうではない場合も意外に多い。きちんと調べれば分かることだが、曲のクレジットで「伝承曲」(traditional, trad. trad など)と書かれていても実はれっきとした作者がいる場合が少なくない。それが分からない場合は「○○さんから習った」というソースの明示で代えるのはいいだろう。ともかくも、伝承に対する敬意の形で曲を大事にしていることがわかるからだ。
アイルランド語の場合は事情がさらに複雑で、ある地方の歌を違う地方の人が歌う場合には発音が変わってくることが大いにあり得る。その変更を「伝承だから」の一言ですます前に、まず、もともと詩人はどう書いていたのかをきちんと把握することが重要である。そのうえで、当地の言語環境では通じないというのであれば、それを断って改変すべきだ。詩人は一言一句といえどゆるがせにしない作詩態度をとっているから、それくらいは当然の配慮である。
ただ、曲については、譜面に残っていない場合が多く、これが原作者の旋律だと決めるのは難しい場合もある。しかし、旋律は多くの場合、詩の韻律によってかなり規定されるので、正しい詩を知れば正しい旋律にたどりつく可能性は高い。
〈浜辺の歌〉 の例は笑ってばかりもいられない。よく似た例は身近なアイルランド歌集にごろごろある。
上に初見で歌ったと書いてあるが、これは解せない。いかに声楽家でも認識不足である。まず、詩を読んでよく理解してから歌いだすべきである。それから、原作者名が書いていない例としては、CD に復刻されたショーン・キャノン(Sean Cannon)の The Roving Journey Man 所収の 'My Lagan Love' の詩を書いた Seosamh MacCathmhaoil (Joseph Campbell) の名が明記されていない。