少年のすさんだ心にひびく琴の音
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樋口一葉「琴の音」(1893)
一葉忌(11月23日)に、心静かに少年の心を思う。
明治26年(1893)、雑誌「文學界」に掲載された作品。少年渡辺金吾の不遇をかこつ心が、琴の音にいつしか癒され、生への明るい希望を取戻す物語。
一葉を世にひろめるため、ひとり芝居を続ける女優の奥山眞佐子さんは、一葉像をこう定義してみせる。
- 思いやりのあるひと
- 胆の据わったひと
- お金への執着がすくないひと
このような凛とした明治の女流作家は、奥山さんから見れば、まことに「女が女に惚れる」ようなひとなのではないか。
「琴の音」の金吾少年は、四歳のときに父子ともに母親に見限られ、それから半年たつと
其年の師走には親子が身二つを包むものも無く、ましてや雨露をしのがん軒もなく成りぬ
という状態にいたる。
そののち、十歳のころ、父親は酔ったあげくに「松の下かげ」にて「世にあさましき終りを為」し、以後は天涯孤独の身となる。
そんな哀れな金吾少年が十四になったある秋雨の夜、根岸の御行の松のあたりで、十九歳の森江しづが奏でる琴の音を耳にする。その音色は「あはれに淋しき調べ」であり、それでいて「優しき音色」である。
このしづの姿は、あるいは一葉そのひとの投影ではないかと思われる。
姿は風にもたへぬ柳の糸の、細々と弱げなれども、爪箱とりて居ずまゐを改たむる時は、塵のうきよの紛雑(みだれ)も何ぞ、松風かよふ糸の上には、山姫きたりて手やそふらん、夢も現も此うちにとほゝ笑みて、雨にも風にも、はたゝめく雷電にも、悠然として余念なし。
このような女性の琴の音がいかに少年のすさみきった心を癒したのか。その答えは、あるいは次の文章にあるような気がしてならない。
清きは清きにしたがひ、濁れるは濁れるまにまに、八面玲瓏一点無私のおもかげに添ひて、澄のぼる琴のね何処までゆくらん、うつくしく面白く、清く尊く、さながら天上の楽にも似たりけり。
お静が琴のねは此月此日うき世に人一人生みぬ、春秋十四年雨つゆに打たれて、ねぢけゆく心は巌のやうにかたく、射る矢も此処にたちがたき身の、果は臭骸を野山にさらして、父が末路の哀れやまなぶらん、さらずば悪名を路傍につたへて、腰に鎖のあさましき世や送るらん、さても心の奥にひそまりし優しさは、三更月下の琴声に和して、こぼれ初めぬる涙、露の玉か
かくして金吾少年は明るい希望を見出した。幸いなるかな。