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全力で入手した「文學界」2015年9月号


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 はじめに、どうやって入手したかのいきさつ。

  アマゾンを見たら、新刊では既に在庫切れ。定価より高い値段で中古品が20以上出品されている。ほかのオンライン書店でも見つからない。

 この号はコンビニでも売られると聞いていたので、すぐ手に入るとふんでいたのが甘かった。

 諦めかけて、ふと閃いた。そうだ、あそこがある。

 こういう時ぼくはヨドバシカメラを試す。あった。アマゾンをやめてヨドバシカメラに変えた人の話を聞いたことがあったけれど、確かに「もう一つのアマゾン」だ。

中森明夫又吉直樹

羽田圭介又吉直樹スペシャル」号だけど、この論文は表紙には載っていない。しかし、読んだなかで、これが一番読みごたえがあった。

「小説家・又吉直樹の宿命」というタイトル。お笑いと文学、どちらを取るのかという誰もが考える問題意識は共有しながらも、松本人志の『遺書』を二十年ぶりに更新したのが『火花』だという独自の見解を示す。

 中森は又吉のエネルギーの投入の仕方に宗教的情熱にも似たところがあることを、バルガス・リョサのことばを引用して指摘する。

 しかし、それほどの投入をしたにもかかわらず、文学はそれ以上を要求した。ゆえに次のようにしるす。

 芸人・又吉直樹がもっとも大切なものを投入して、なお、その信仰を裏切ってみせた時、小説家・ 又吉直樹が誕生した。

 それが、この作家の”宿命”と言うべきだろう。

茨木のり子の詩

 茨木のり子(1926-2006)の「わたしが一番きれいだったとき」が巻頭に引かれている。詩人が「31歳の時、終戦を迎えた若き日を追想して」書いた詩。終戦を迎えた時、詩人は19歳だった。この詩をこの時期に読めてよかった。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

 

だから決めた
できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

堀川恵子のヒロシマ文学論

 この文章「ヒロシマ文学を世界遺産に」は意外にも2015年6月の文科省通知から始まる。全国86の国立大に「文系学部の廃止」を含めた組織改革を進めるよう促す通知だ。理由は〈少子化を背景として「日本を取り巻く社会経済状況が急激に変化する中、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある」というものだった。〉

 このニュースを聞いて著者はのけぞって驚いたという。そりゃそうである。理由と通知の内容とが合っていない。

 原爆文学を残すためにという論点から説き起こし、ヒロシマ文学の実例として、峠三吉栗原貞子の詩を挙げる。ほかに、他の論者も挙げる原民喜や大田洋子も。堀川の文章は美しい。

 最後に再び文科省への言及がある。この言葉をぜひ文科省の人びとや、通知に影響を与えた人びとに読んでいただきたい。

社会の役に立たない文系学部は削減せよ、という官僚たちに伝えたい。広島の「空白の一〇年」を埋めたのは報道でも行政でもない。文学者たちだった。その足跡を受け継いでいるのもまた、文学を愛する市民である。私たちは「言葉」によって他者と交流し、議論し、批判しあい、より良い未来を作り上げようとする。同時に「言葉」や「文学」を通して過去をも学ぶ。文学とは、多様な価値観を尊重しあう社会を目指すための、いわば基礎体力だ。削減されるべきは、他者に伝わる言葉を持たず、歴史のレトリックすら正しく理解しようとしない政治家の議席数だろう。文学を安易に否定することは、とりもなおさずその国の文化や歴史、そして未来をも否定する愚論であることは、広島の歴史が伝えている。

 広島の 「空白の一〇年」について、堀川は次のように書くのである。

 敗戦から一〇年の間を、広島では「空白の一〇年」と呼ぶことがある。原因不明の死が町の至るところで、しかも万単位で発生していた時期だが、この時期にかんする記録は極めて少ない。原子爆弾の真の恐ろしさはその刹那に終わらず、その後も静かで残酷な牙を剥き続けた。その事実を、アメリカは表向きはひた隠しにしながら、ペンタゴン直轄の研究者を送り込んで詳細なデータを取り続けた。かたや日本のメディアは、口と目と耳を閉じた。医学者や歴史の研究者、後に平和活動家を名乗る人たちも、沈黙に堕した。

 しかし、本当に広島は「空白」だったのか。すでに見たように、地元紙ですら伝えなかった八月六日の風景を書き残した詩人がいた。それはプレスコードをかいくぐり、手作りの詩集として世に出されてもいる。抗ったのは、峠三吉ひとりに留まらない。そこには、自ら被爆し余命を限られた文学者たちの、まさに命賭がけの戦いがあった。