1945年8月9日は木曜日
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長崎の原爆の日
8月9日は長崎の原爆の日。
1945年のこの日は木曜日だった。
これが気になったのは、当日、その真上(浦上の松山町の上空500m)でアメリカ軍のB-29が手動投下したプルトニウム型原子爆弾が炸裂したとき、浦上天主堂では告解の秘跡が行われていたからである。8月15日(水)の聖母被昇天の大祝日に備えるためであった。
現在でも平日に告解が行われることはあるけれども、このときは数十人の信者が天主堂内にいたと考えられている。告解の秘跡を行うため、二人の司祭もいた。これらの方たちは爆風で即死した。今日だと(特別なことのない)平日の告解はこれほどの人数にはならないだろう。長崎が敬虔な教区ということもある。
なぜ木曜日だったのか。浦上小教区の沿革を語るページにはこう書かれている。
この日、浦上天主堂では毎年のならわしによって、大祝日の前には地区ごとに日をきめて告解の秘跡が行われていた。聖母被昇天の大祝日の準備の告解のために主任司祭西田三郎師は聖堂に入ろうとし、助任司祭玉屋房吉師は告解場に入っておられた。
つまり、この日はたまたまだった。しかし、そのことが引起した波紋の大きさを考えるとき、人知では計り知れない。
ただ、アイルランド人なら木曜日と聞いておそらくある感懐をいだくだろう。アイルランドでは木曜日という名称に「断食」という言葉が入っている。
被爆した聖マリア像
祭壇上の無原罪の御宿りの聖母像(スペイン製の木彫り)が被爆し、頭部が瓦礫の中から発見された。両目が黒く焼け落ち、ほおが黒く焦げている。たとえ信仰を持たない人でも、この聖マリア像は心を打つかもしれない。
この聖マリア像をモチーフにして絵に描き続けている深堀柱(あきら)さんのことが朝日新聞で取上げられていた(8月8日付)。
マリア像は、爆心地近くの旧浦上天主堂に置かれていた。カトリック信徒の家庭に生まれた深堀さんは、原爆が投下される前、毎週日曜のミサでいつもマリア像を見つめていた。
また、「ゲルニカのマリア、長崎に 日本の被爆像と2体展示」という記事が産経フォトに載っていた(8月9日付)。
1930年代に世界初の無差別爆撃で破壊されたスペイン・ゲルニカのマリア像の複製品が9日、長崎原爆で崩壊後に再建された浦上天主堂(長崎市)で、カトリック長崎大司教区に寄贈された。天主堂には被爆したマリア像があり、関係者は「戦争の悲惨さを伝える重要な資料。2体とも展示できるのは素晴らしい」と歓迎している。
「被爆マリア像を世界遺産へ」という運動もあるけれど、どうなるだろうか。そもそも、長崎の浦上天主堂の廃墟を保存していれば広島の「原爆ドーム」のような遺構になったと思われるのに、どうしてそうならなかったのか。これについて追いかけた本もある(高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』)。